(あらいじょう)
神奈川県三浦市三崎町小網代
▲ 新井城は相模三浦氏の海城として知られる。三方を海に囲まれていること
から防御に優れており、北条早雲の攻撃にも3年間持ちこたえた要害であった。
(写真・南側対岸の諸磯から見た城址。岬先端部分
は南曲輪で、白い船の向こうが本城部分である。)
砕けて後はもとの土くれ
源頼朝による鎌倉幕府草創の重臣であった三浦氏は頼朝没後の北条氏による権力掌握の過程で攻め滅ぼされ排除されてしまった。しかし、全滅してしまったわけではない。その名跡は佐原氏を名乗った義連の孫盛時によって再興された。五代執権北条時頼の時代である。 |
▲油壺湾側に設けられたハイキングコースと土塁跡。 |
▲同じく土塁跡。 |
▲京急油壺マリンパーク。城域の大半はこうした観光施設のために改変されてしまったようだ。 |
▲マリンパークの北側・岬の突端に三浦道寸の墓がある。 |
▲ 三浦道寸の墓。三浦一族最後の当主として後北条軍を相手に3年間の籠城戦の末に滅んだ。 |
▲内の引橋と呼ばれる所の堀切跡。新井城はこの部分で城外と完全に遮断される。 |
▲内の引橋近くから油壺湾沿いにハイキングコースが設けられている。コースの陸側には土塁が連なっている。 |
▲コースの途中に立入禁止の柵がある。中は東大地震研究所の施設域となっているが、土塁や堀などの遺構が良好な状態で残っているように見える |
▲柵の前に立てられた城址説明板。 |
▲コースの途中には油坪湾に関する石碑や説明板が立っている。 |
▲油壺湾。3年の籠城の末に兵粮は底を尽き、城兵は一丸となって討って出て壮烈な討死を遂げた。彼らの血で海面が染まり、油を流したようになったと言われたことからこの湾を「油壺」と呼ぶようになったという。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2013年1月4日 |
主要参考資料 | 「日本城郭総覧」 |
↑ | 「関東の名城を歩く・南関東編」他 |