新井城
(あらいじょう)

神奈川県三浦市三崎町小網代


▲ 新井城は相模三浦氏の海城として知られる。三方を海に囲まれていること
から防御に優れており、北条早雲の攻撃にも3年間持ちこたえた要害であった。
(写真・南側対岸の諸磯から見た城址。岬先端部分
は南曲輪で、白い船の向こうが本城部分である。)

砕けて後はもとの土くれ

 源頼朝による鎌倉幕府草創の重臣であった三浦氏は頼朝没後の北条氏による権力掌握の過程で攻め滅ぼされ排除されてしまった。しかし、全滅してしまったわけではない。その名跡は佐原氏を名乗った義連の孫盛時によって再興された。五代執権北条時頼の時代である。

 その後、鎌倉幕府が滅び、南北朝の争乱期を経て世は室町時代へと移る。応仁の乱(1467)をもって戦国時代に突入するといわれるが、関東地方はそれに先立つ上杉禅秀の乱(1416)、永享の乱(1438)、結城合戦(1440/結城城)、享徳の乱(1454)と戦乱の巷と化していた。三浦氏も時代の荒波に翻弄されつつも盛時から六代目高通の時に(1351)相模守護となり、その曾孫時高が永享の乱後には名実ともに相模の実力者となっていた。

 戦乱の絶えることのない中にあって城郭の発展と強化は必然のことであった。この新井城も正確な築城時期は不明とされながらもそうした時代の中(1400年代中頃)で築かれたものと見られている。

 さて、相模の雄となった三浦時高であるが、実子に恵まれなかったために主家筋で姪の婿でもある扇谷上杉高救(たかひら)を養子とした。その後、高救は上杉に復して実子義同(よしあつ)に三浦氏の家督を譲ったとされる。ところが、時高が晩年に至り実子を授かったのである。高処(たかおき)という。こうなると実子に家督を継がせたいと願う親心はいつの世も同じでお家騒動が起きる。時高は高救・義同親子を三浦から追い出してしまった。高救は安房へ、義同は小田原城主大森氏(母方の実家)のもとへ身を寄せた。

 大森氏を頼った義同はここで出家して道寸と号した。道寸は器量才覚人に越え、武芸に秀でていたと言われ、三浦家中の中にも道寸を慕う者が多くいたと思われる。明応三年(1494)、道寸はそうした三浦家中の面々と大森氏の支援を受けて時高打倒の兵を挙げた。

 ここで新井城が登場する。一般的には三浦時高父子が本拠とする新井城を道寸が攻め落とし、時高父子は自害して果てたとされている。つまり、新井城は三浦氏の本城(三崎城であったとも言われるが)であったことになろうか。

 新井城の時高父子を滅ぼした道寸は三浦介を継いで三浦家の当主となったが、後に子の義意に家督をゆずり新井城主とした。そして自らは岡崎城(平塚市)を居城としたのであった。

 道寸が三浦当主となって間もなく、小田原城が伊豆の伊勢盛時(北条早雲)によって奪われ、西相模を支配してきた大森氏が滅んだ。

 やがて道寸と早雲の対立は必至となり、永正九年(1512)になると道寸の拠る岡崎城へ早雲勢が攻め寄せてきた。早雲勢の城攻めは凄まじく道寸は城を脱して住吉城(逗子市)に移り、さらに新井城に逃れた。勢いに乗る早雲勢も道寸を追って新井城に迫った。

 しかし、新井城は三方を海に囲まれた要害である。早雲は攻めあぐんで必然的に持久戦となった。新井城に籠城した道寸は扇谷上杉に援軍を要請するが、これも早雲勢によって撃破されてしまい、孤立無援の状態が続いた。

 一年が過ぎ、二年がが過ぎ、籠城三年目を迎えるに至った。さすがに兵糧も底をついた。永正十三年(1516)七月十一日、ついに城兵は城を討って出た。八十五人力と言われた義意も存分に戦った後に自刃して果て、道寸も「討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ、砕けて後はもとの土くれ」と詠んで静かに自刃したという。城の南側の入り江の海は討死した三浦の将兵の血で油のようになったと言われ、油壺と呼ばれるようになったという。

 落城後、新井城は後北条氏によって多少の改修は受けたものの継続して利用されることはなかったとされる。


油壺湾側に設けられたハイキングコースと土塁跡。

▲同じく土塁跡。

▲京急油壺マリンパーク。城域の大半はこうした観光施設のために改変されてしまったようだ。

▲マリンパークの北側・岬の突端に三浦道寸の墓がある。

▲ 三浦道寸の墓。三浦一族最後の当主として後北条軍を相手に3年間の籠城戦の末に滅んだ。

▲内の引橋と呼ばれる所の堀切跡。新井城はこの部分で城外と完全に遮断される。

▲内の引橋近くから油壺湾沿いにハイキングコースが設けられている。コースの陸側には土塁が連なっている。

▲コースの途中に立入禁止の柵がある。中は東大地震研究所の施設域となっているが、土塁や堀などの遺構が良好な状態で残っているように見える

▲柵の前に立てられた城址説明板。

▲コースの途中には油坪湾に関する石碑や説明板が立っている。

▲油壺湾。3年の籠城の末に兵粮は底を尽き、城兵は一丸となって討って出て壮烈な討死を遂げた。彼らの血で海面が染まり、油を流したようになったと言われたことからこの湾を「油壺」と呼ぶようになったという。

----備考----
訪問年月日 2013年1月4日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
 ↑ 「関東の名城を歩く・南関東編」他

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