寿永二年(1183)、源頼朝の近臣小山朝光が源(志田)義広の乱制圧の功績により結城郡の地頭職に補任され、当地に城館を築いたことが結城城のはじまりとされている。
その後、代を重ねて鎌倉幕府滅亡から南北朝期にかけては六代朝祐が一貫して足利尊氏に従って戦功を重ねた。結城城が城郭として整備されたのはこの頃とされ、南朝方の小田城(つくば市)、関城(筑西市)、大宝城(下妻市)に対抗したものと見られている。
鎌倉府の自立傾向が顕著となる応永期(1394-1428)には、結城氏は一貫して鎌倉公方に従った。永享十年(1438)の永享の乱で鎌倉公方足利持氏が反幕府の挙兵の後に敗死したが、結城氏朝(十一代)は持氏の無念を晴らそうと持氏の遺児である春王丸と安王丸を奉じて幕府に対して反旗を翻すに至る。
永享十二年(1440)七月、結城氏朝は持氏の遺児と関東における反幕勢力二万の兵を結集して結城城に籠城、幕府勢との対決に備えた。いわゆる結城合戦として後世に名を刻むことになる戦いである。このことから結城氏と鎌倉公方がいかに密接な関係であったかが分かる。
結城氏の反乱に対して室町幕府は上杉清方、今川範忠、小笠原政康ら全国から討伐の軍勢を結城城攻めに結集し、その兵数は十万に達したと言われている。
攻防戦は長期戦となり、結城城がいかに要害堅固なものであったかを物語っている。しかし、結城氏に味方する小山満泰や山川氏義らが離反するに及び、翌年の嘉吉元年(1441)四月には籠城戦も限界にきてしまった。やむなく氏朝は子の持朝と共に城を打って出て壮烈な討死を遂げ、結城城は落城した。
結城氏を討伐した幕府であったが、戦後も関東の諸氏による鎌倉府再興の願いが強いため、数年の後の文安四年(1447)に永享の乱で自刃した足利持氏の四男成氏を鎌倉公方として再興を認めたのである。
鎌倉入りした成氏は、結城合戦時に乳母に抱かれて城を脱し、佐竹氏に庇護されていた結城氏朝の四男成朝(十三代)を取り立てて結城氏を再興させ、結城城に戻した。鎌倉公方に殉じた結城氏を再興させるのは成氏にとっては当然のことであったのだろう。
永正期(1504-21)には十五代政朝が勢力を拡大して戦国大名化し、天文期(1532-54)には十六代政勝が後北条氏と結んで宇都宮氏、佐竹氏、小田氏と争い、下野と常陸に領地を拡大した。
しかし、戦国乱世の状況は厳しい。永禄二年(1556)に家督を継承した十七代晴朝は近隣諸氏の間の中で時に戦い、時に和睦を繰り返し、巧みに乱世を生き抜いた。そして、天正十八年(1590)という豊臣秀吉の天下平定の時を迎えることになる。
結城晴朝は秀吉の小田原攻めに参陣したことで所領を安堵された。さらに晴朝は秀吉に養子縁組を申し出た。結城家の生き残りに懸命であったのだ。秀吉は養子としていた徳川家康の次男秀康を晴朝の養子とした。晴朝は秀康に家督を譲って隠居したのである。これで結城家は安泰のはずであった。
ところが、慶長六年(1601)に秀康は越前に移封され、結城城は破却されることになったのである。四百年十八代にわたって幾多の苦難を乗り越え、生き続けてきた結城の地をいとも簡単に離れろというのであるから、晴朝の心中が思いやられる。
慶長十二年(1607)、秀康が病没して嫡男忠直が継いだ。忠直は松平を称し、結城の名は五男直基が継いだ。慶長十九年(1614)、晴朝の隠居領五千石は直基が相続した。
寛永三年(1626)、越前勝山三万石の大名となっていた直基は松平姓に復した。ここに結城の名は歴史から消えてしまうことになる。
時は過ぎて元禄十三年(1700)、水野勝長が結城に入部して立藩した。一万八千石である。元禄十六年(1703)幕府より結城城の再興が許され、かつての館と中城の部分が再築された。以後、水野氏が代を重ねて幕末に至る。
慶応四年(1868)、結城藩は佐幕派と恭順派に分裂した。十代藩主勝知は彰義隊などを率いて恭順派となった結城城を占拠したが、新政府軍に攻められて逃走、城は落ちて後に廃城となった。
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