小田氏が当地に勢力を張り、戦国大名として名を馳せるに至ったはじまりは鎌倉初期にまで遡る。小田氏の始祖とされる八田知家は下野国宇都宮氏の一族で、源頼朝に従って平家追討や奥州征伐に活躍、建久四年(1193)に常陸守護として当地に入部、居館を構えたことにはじまる。小田氏を名乗るのは諸説あるが四代時知の頃とみられており、鎌倉時代を通して北条得宗家より代々偏諱を賜るなどして関東における主要御家人の地位にあった。
八代治久の頃は鎌倉幕府滅亡、建武の新政、南北朝の争乱という激動の時代であった。当初、元弘の乱(1331)では幕府軍に従っていたが幕府滅亡後は上洛して後醍醐天皇に仕えた。暦応元年(1338)、南北朝の争乱が全国に広まると治久は南朝重臣北畠親房を小田城に迎え、関東における南方の中心勢力となった。北畠親房が当城で幼帝後村上天皇のために「神皇正統記」を執筆したことは有名である。暦応二年(1339)、足利尊氏から関東平定の命を受けた高師冬による南方への攻撃がはじまる。小田城も師冬の攻撃にさらされ、暦応四年(1341)五月に至り、ついに治久は親房を見限って師冬に降伏してしまった。
その後は足利氏に仕え、九代孝朝の頃には関東八屋形に数えられ、旧領の大半を回復したと言われている。
戦国期には十四代政治が勢力を拡大して戦国大名化を成し遂げたとされる。しかし、近隣の佐竹氏、結城氏との確執や後北条氏の勢力拡大の中にあって小田氏の前途は多難であったといえる。天文十七年(1548)、政治が没して前途多難の小田氏を相続したのは氏治である。
弘治二年(1556)、結城氏が北条氏康の援軍(岩付城主太田資正、江戸城代遠山綱景)を得て小田城を攻めようとした。氏治は境目の海老ケ島城にて待ち構えたがあまりの大軍に敵わずとみて小田城を通り越して、支城の土浦城まで撤退してしまった。数ヶ月後、北条氏康は佐竹氏に対するために氏治と和睦した。氏治は結城勢を追い返して小田城を奪還、帰城した。
弘治三年(1557)、今度は佐竹義昭と対立、氏治は黒子の戦いで敗北を喫して小田城を失い、土浦城に逃れた。永禄二年(1559)には小田城を奪回して再び結城攻めに乗り出したものの小山氏、真壁氏に支えられた結城氏に敗北してしまう。
永禄三年(1560)には上杉謙信が関東へ出陣すると氏治も関東の諸将に合わせて謙信に従い、翌年一月には佐竹、小山氏らと共に後北条方の結城城を攻めて結城氏を降伏せしめ、謙信の小田原城攻めに参陣している。
永禄五年(1562)、氏治は謙信が越後へ帰国すると北条氏康と結び、佐竹氏と対立するようになる。
永禄七年(1564)、氏治の離反に激怒した謙信は山王堂の戦いで小田勢を破り、小田城を奪った。またもや城を奪われた氏治は藤沢城へ逃れていたが、翌年小田城を占拠していた佐竹勢を追い払って奪還に成功した。しかし、同九年(1566)に再び謙信の出馬となり、氏治はまたもや小田城から逃げ出してしまったのである。
永禄十一年(1568)、氏治は宿敵結城晴朝を通じて謙信に降伏、城を修復しないとの条件付きで小田城に復帰した。
永禄十二年(1569)からは佐竹義重と結城晴朝の両面の敵に対応して勝利と敗北を繰り返し、その度に小田城を失ったり、取り返したりを繰り返した。
元亀四年(1573)、氏治は手這坂の戦いで佐竹方太田資正の軍勢に敗れて小田城を失い、土浦城に敗走した。
その後、天正十八年(1590)まで佐竹氏との戦いが続いたが小田城の奪回は果たせなかった。この間、小田城を失うこと六回、奪回すること五回に及んでいる。決して戦上手の武将とは言えないが、何度追われても復帰を果たせた裏には先祖以来の忠臣に恵まれたことと同時に領民から慕われる人望が備わっていたのかも知れない。領民たちは小田の殿様には年貢を納めても、よそ者には出さなかったとも伝えられている。
さて、天正十八年一月の最後の戦いに戻ろう。本拠地小田城奪還の兵を率いた氏治は小田城外郭南東部に接する樋ノ口に布陣、塁壁に向かって総攻撃をかけた。城内からは佐竹方梶原景国、太田資武らが打って出て応戦したが、小田勢はこれを撃破して城内に突入する勢いであった。ところが、景国、資武の父太田資正が救援に駆け付けたため、戦いは乱戦となり、氏治は今一歩のところで攻城を断念せざるを得ず、やむなく兵を退いた。
氏治は北条氏政に援兵を頼んだが、小田原城はそれどころではなかった。豊臣秀吉の大軍を相手に籠城していたのである。
小田原落城後、氏治のもとに届けられた報せは所領没収の沙汰であった。秀吉のもとに参陣せず、秀吉に味方する佐竹方の城(小田城)を攻めたためである。氏治は謝罪を繰り返し、天正十九年(1591)に氏治の娘が側室となっている結城秀康の客分として許され、三百石が給された。後に秀康の転封に従って越前に移り、慶長六年(1601)に没した。氏治の生涯は父祖伝来の小田城を奪還することに費やされたと言ってもよいであろう。
ちなみに佐竹氏の城となった小田城は慶長七年(1602)に佐竹氏の秋田転封により、廃城となったとされている。
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