イオラニ宮殿が完成したのは1879年(明治12年)で、ハワイ王国七代目君主カラカウア王(在位1874-91)が36万ドルを費やして建てたものである。
ちなみにカラカウア王に至る系譜を簡単にたどってみる。
初代国王はカメハメハ大王として知られるカメハメハ1世である。彼はイギリスの探検家ジェームス・クックがハワイに来航した1778年(安永7年/江戸中期)の時、20歳位の青年であった。その後、彼は白人を軍事顧問に抱えてマスケット銃や大砲を装備し、1795年(寛政7年)にはマウイ、モロカイ、オアフの島々を征服して王国樹立を宣言した。
カメハメハ1世の死によって1819年(文政2年)に長男リホリホが即位してカメハメハ2世となった。彼の摂政となったカアフマヌはカメハメハ1世の王妃であったもので、彼女は王権強化のためにハワイ古来のカプ(掟)を廃止しヘイアウ(神殿)を破壊した。さらにこの頃宣教師が布教を始めておりキリスト教がカプに取って代わることにもなった。1823年、カメハメハ2世は英国訪問中に不運にも王妃共々麻疹にかかって病没してしまった。
次に即位したカメハメハ3世は憲法を公布して政治制度を改革、外交に於いては不平等条約を平等なものに改正、土地制度や教育改革にも取り組んだことで知られる。しかし要職のほとんどは白人が占めていたようである。
1854年(安政元年)、カメハメハ4世が即位した。彼は米国系白人には警戒的であったと言われ、親英的態度をとって英国国教会に入信したとも言われる。また、疫病に弱いハワイ人の人口の減少が深刻の度を増していた。
1863年(文久3年)に即位したカメハメハ5世も反米親英であったためハワイ経済を担う米国人からは反感を持たれたという。1872年(明治5年)没。彼の死によってカメハメハ大王の血筋は絶えてしまった。
1873年、議会は王族のひとりであるルナリロ王を選出した。彼は親米路線を取ったが在位わずか1年で結核によって病没してしまった。
再び議会によって選挙が行われ、イオラニ宮殿を建てたカラカウア王が即位したのである。彼は10ヵ月ほどをかけて世界一周旅行をしたことで知られており、日本にも立ち寄って移民の要請などを伝えている。
カラカウア王の外交や国内における伝統文化の復興などは米国系財閥の反感を買うものであったと言われ、武力を背景にした彼らは王党派の要人を辞職に追い込み、さらには憲法を在住外国人に有利なように変えられてしまった。この憲法は銃剣憲法と呼ばれている。晩年のカラカウア王の政治力は無力に近かったと言われている。
1891年(明治24年)、カラカウア王は療養先のサンフランシスコで病没した。彼によって後継者指名を受けていた妹のリリウオカラニ(53歳)が女王となり、王権強化の新憲法の施行を強行した。
女王の反米強硬策に対して米国系の人々は1893年、女王の糾弾と米軍出動の要請を行い、さらには暫定政府を樹立して女王に退位を迫って宮殿内に監禁してしまった。このことが事実上のハワイ王国の終焉となってしまったのである。
その後は1894年に在住米国人のドールを大統領とするハワイ共和国が誕生した。そして1898年(明治31年)にはドールの目的であった米国への併合が実現して米国領となった。1959年(昭和34年)に至り、合衆国50番目の州として立州し現在に至っている。
以上、ハワイ史をごく簡単に概観してみたが、イオラニ宮殿はとくにハワイ王国の終焉を物語る現場でもあるので、旅行の際には是非立寄ってみて欲しい場所である。
|