若桜城
(わかさじょう)

国指定史跡、続百名城

鳥取県八頭郡若桜町若桜


▲ 若桜城は国人矢部氏によって築かれた中世山城であり、羽柴
秀吉の支配下に入ると石垣を用いた織豊期の近世城郭へと改修され
た。一般的には史跡名称となっている若桜鬼ヶ城と呼ばれている。
(写真・若桜城本丸と天守台。)

再興の願い空しき若桜城

 若桜鬼ヶ城の名で親しまれているこの城の創築は不明とされているが、矢部氏の国人としての成長と自立化の過程で築かれたはずであり、室町中期頃には詰の城として整備されていたものと思われる。

 その矢部氏、元は駿河国安倍郡矢部村(静岡県静岡市清水区)の地頭であったと言われている。鎌倉初期の正治二年(1200)、梶原景時一族の討伐に功があり、矢部十郎暉種(あきたね)が因幡国八東郡山田村(若桜町若桜の一部に比定される)外二十ヵ村を与えられて入部したのが因幡矢部氏の始まりとなった。

 南北朝期には足利尊氏に味方し、守護山名氏に従った。後には幕府奉公衆となって自立化の道を歩み出したものと思われ、当主矢部定利は同じ国人であり奉公衆仲間でもあった毛利次郎貞元(私部城主)の反守護の乱(毛利次郎の乱/文明十一年(1479))に与している。この乱は長享元年(1487)にも再発しており、二度とも矢部定利は毛利貞元に与して守護山名豊時と戦っている。二度目の乱は守護方優勢で推移し、延徳元年(1489)九月にはついに毛利貞元が私部城にて自刃、矢部定利も若桜館(若桜城か)に逃げ戻り、守護方の軍勢に包囲されるなか、自刃して果てた。その後も矢部氏は私部城の因幡毛利氏との関係を保ち続け、但馬山名氏と争ったという。

 天正元年(1573)暮、尼子再興を目指す尼子勝久、山中鹿之助幸盛らの軍勢が因幡へ進攻、十日のうちに十三城を抜いて旭日昇天の勢いを示し、翌年には若桜城の矢部氏も尼子再興軍に降った。しかし、状況は目まぐるしく変転する。尼子氏の支援を受けて鳥取城主となっていた山名豊国が安芸毛利方に寝返り、但馬の山名氏も毛利方と和してしまった。

 天正三年(1575)六月、山中鹿之助は因幡戦線を維持するため、向背定かならぬ矢部氏を謀って若桜城を乗っ取ってしまった。それはこの若桜城が因幡、播磨、但馬を結ぶ交通の要衝であったからであろう。この後、十六代続いた矢部氏は滅び、若桜の地に帰農したとされる。しかし、吉川元春らの毛利勢による因幡攻略によって尼子党の亀井茲矩の守る私部城が十月に落城、翌四年(1576)五月には若桜城も持ち堪えられず、山中鹿之助らは因幡から退去してしまった。

 天正八年(1580)、羽柴秀吉の因幡進攻によって鳥取城の山名豊国が降伏した。この時に秀吉に従っていた但馬の国人八木豊信が若桜城の守りに就いた。翌九年(1581)、鳥取城に毛利の吉川経家が城主となるにおよび八木豊信は若桜城を捨てて逐電してしまった。

 秀吉による徹底した兵糧攻めによって鳥取城は落城した。その後、若桜城には木下重堅が二万石の城主として入城し、石垣を用いた織豊期城郭へと改修されることになる。

 慶長五年(1600)の関ヶ原戦で木下重堅は西軍に属して奮戦したが本戦後に自刃して果てた。

 翌慶長六年(1601)、山崎家盛が三万石を拝領して若桜に入部、若桜藩が立藩した。家盛は慶長十九年(1614)に没、嫡男家治が二代藩主となった。

 元和三年(1617)、家治は備中成羽へ転封となり、若桜城は廃城となった。以後、若桜領は鳥取藩領となった。

 現在、城址を訪れると石垣の崩れた状態を多く目にする。それは元和三年の破城の跡と言われている。


▲ 二の丸跡と木彫りの城址碑。
 ▲ 林道を進み、城址近くになると駐車スペースが設けられている。ここから徒歩で城跡を目指す。
▲ 歩いて数分で馬場と呼ばれる広場に出る。

▲ 馬場から城跡まで150mの案内板が立っている。

▲ しばらく山道を進むと眼前に石垣が姿を現す。ホウヅキ段と呼ばれる曲輪の石垣である。

▲ 石垣に沿って西(左側)へと向かう。犬走り状の狭い道なので斜面側に転落しないように注意が必要だ。

▲ 本丸下西側の石垣。無残に崩れかけた石垣は破城の跡とされている。

▲ 本丸北側の二の丸と城址碑。

▲ 本丸の南東隅の天守台。二・三層程度の櫓が建っていたのであろうか。

▲ 天守台からの眺望。左の矢印方向は但馬へ、右の矢印方向は播磨へ向かう街道である。

----備考----
訪問年月日 2013年5月4日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
↑  「尼子盛衰人物記」他 

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