(やわたとりで)
豊川市八幡町東赤土
▲ 八幡砦は永禄五年(1532)当時、今川方の砦として築かれ、松平勢との
激しい攻防が展開されたことは諸書によって伝えられてきたが、近年までそ
の場所が明確でなかった。それが発掘調査によって明らかとなったが、区画
整備に伴うものであったために現在では埋め戻され、宅地化が進んでいる。
(写真・八幡砦の発掘調査の行われた場所付近。)
今川の藩屏、八幡砦
桶狭間の合戦(永禄三年/1560)で今川義元が敗死すると三河の情勢は一変した。西三河では松平元康(徳川家康)が今川氏と手を切って岡崎城に自立、周辺地域の攻略に乗り出した。東三河でも今川氏から離反して松平氏に呼応する国人・土豪が相次いだ。 翌永禄六年(1563)、牛久保城の今川氏真は城下の大聖寺(境内に今川義元の胴塚がある)で父義元の三回忌を営んだ後、どうしたのか駿府に引き上げてしまった。戦況の進展が見えず、嫌気がさしたのであろうか。家康(この年、元康から改名)が一宮砦の後詰として砦に入ったのも今川本隊の撤収を見届けた時分であったものと思われる。 |
▲ 平成11年(1999)から同15年(2003)にかけて国分寺北遺跡で実施された発掘調査では堀、土塁、土橋などの小規模な城郭遺構が確認された。 |
▲ 発掘調査位置の南東100mほどの所に残る土居跡。三河国分寺の築地塀の名残りとされるが、八幡砦とともに陣地として利用された可能性も考えられるだろう。 | ▲ 三河国分寺塔跡の碑と芯礎跡。発掘調査された位置から250mほど南南東の位置にあるが、この辺りにも兵が展開していたものと思われる。 |
▲ 三河国分寺跡の塔跡に立つ説明板。塔跡の南側は後世の削平を受け、北と西側は戦国時代に土塁として土が新たに盛られたとある。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2013年6月1日 |
主要参考資料 | 「日本城郭全集」 |
↑ | 「新編・豊川市史」他 |