八幡砦
(やわたとりで)

豊川市八幡町東赤土


▲ 八幡砦は永禄五年(1532)当時、今川方の砦として築かれ、松平勢との
激しい攻防が展開されたことは諸書によって伝えられてきたが、近年までそ
の場所が明確でなかった。それが発掘調査によって明らかとなったが、区画
整備に伴うものであったために現在では埋め戻され、宅地化が進んでいる。
(写真・八幡砦の発掘調査の行われた場所付近。)

今川の藩屏、八幡砦

 桶狭間の合戦(永禄三年/1560)で今川義元が敗死すると三河の情勢は一変した。西三河では松平元康(徳川家康)が今川氏と手を切って岡崎城に自立、周辺地域の攻略に乗り出した。東三河でも今川氏から離反して松平氏に呼応する国人・土豪が相次いだ。

 今川当主を引継いだ今川氏真はこうした三河の情勢を「三州錯乱」と呼んで激怒、吉田城に留めていた東三河諸氏の人質を処刑してしまった。

 永禄五年(1562)になると松平元康の軍勢が東三河に進出して牛久保城の北に一宮砦を築いて気勢を上げるに至った。牛久保城は吉田城とともに東三河における今川方の重要拠点となっていた。

 この年、今川氏真は駿遠の軍勢一万余を率いて牛久保城に本陣を置き、一宮砦を包囲して松平勢の進攻に備えた。そして八幡、佐脇(佐脇城)に兵を配して前線基地としたのである。「諸国廃城考」には「吉田牛窪二城の藩屏とす」とある。

 この八幡砦はこの時に築かれたもので守将は今川家臣板倉弾正重定であった。配された将兵は当然三河衆が主体であり牛久保城主牧野氏の家臣らが主であったと思われる。

 この年九月、松平元康は酒井左衛門尉忠次以下千余の軍勢を佐脇・八幡の砦攻撃に出陣させた。八幡砦の板倉弾正以下の今川勢は善戦して酒井勢を撃退、御油・赤坂辺りにまで追撃を続けた。この時、酒井勢の中にいた渡辺半蔵守綱が得意の槍で大活躍して後に「槍の半蔵」の異名をとったことは有名な話である。渡辺半蔵の活躍に加え、新手を加えた酒井勢は反撃に転じて板倉弾正とその息主水ともども討取って八幡砦を陥落させた。

 翌永禄六年(1563)、牛久保城の今川氏真は城下の大聖寺(境内に今川義元の胴塚がある)で父義元の三回忌を営んだ後、どうしたのか駿府に引き上げてしまった。戦況の進展が見えず、嫌気がさしたのであろうか。家康(この年、元康から改名)が一宮砦の後詰として砦に入ったのも今川本隊の撤収を見届けた時分であったものと思われる。

 続いて家康は牛久保城に兵を進め、城を落としてしまった。当然、八幡砦は松平勢の兵站基地として機能していたはずである。

 その後、牛久保城の牧野氏が家康に臣従し、今川のもう一つの拠点である吉田城が陥落するにおよび、八幡砦の必要性は無くなり、廃されたものであろう。

 発掘調査によれば土塁、土橋、堀の遺構が検出されたが何れも急ごしらえのものであったと報告されている。


▲ 平成11年(1999)から同15年(2003)にかけて国分寺北遺跡で実施された発掘調査では堀、土塁、土橋などの小規模な城郭遺構が確認された。
 ▲ 発掘調査位置の南東100mほどの所に残る土居跡。三河国分寺の築地塀の名残りとされるが、八幡砦とともに陣地として利用された可能性も考えられるだろう。
▲ 三河国分寺塔跡の碑と芯礎跡。発掘調査された位置から250mほど南南東の位置にあるが、この辺りにも兵が展開していたものと思われる。

▲ 三河国分寺跡の塔跡に立つ説明板。塔跡の南側は後世の削平を受け、北と西側は戦国時代に土塁として土が新たに盛られたとある。

----備考----
訪問年月日 2013年6月1日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「新編・豊川市史」他

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