(いちのみやとりで)
市指定史跡
豊川市一宮町
▲ 一宮砦の西側虎口に建てられた「徳川家康後詰一宮砦跡」の碑。
砦跡は竹林となっており、部分的に土塁の遺構が残っている。
東照神君、
後詰めの戦い
一宮砦は徳川方が築いた砦である。永禄六年(1563)に今川勢一万五千の大軍に包囲されて危ういところを徳川家康が僅か二千の兵で出撃、その危機を救ったと伝えられている。神君後詰の戦と言われ、家康の武勇談のひとつになっている。 松平元康(徳川家康)がここに砦を構え、家臣本多百助信俊に兵五百を授けて守らせたのが永禄五年(1562)とされている。この築砦年及びその後の戦いの経緯については諸史料により違いがあるためか、現地の説明板には永禄年間(1558-70)のこととしている。それにしても十年以上の幅をもたせられては歴史好きにとっては物足りない説明である。 今川氏真が東三河を維持しようと自ら出陣して牛久保城に本陣を置き、八幡砦や佐脇砦に軍勢を展開して家康軍と激しく戦ったのが永禄五年の九月である。多くの史料が日の違いはあっても年月は一致しているので八幡、佐脇の戦いの時期に関してはほぼ間違いないであろう。 一宮砦は今川の本陣牛久保城の北側にあって、野田・長篠方面に対する今川勢の進出を阻止する位置にある。当然、野田城の菅沼定盈らの支援があったはずである。問題の砦が今川の大軍に包囲されたというのは、氏真が八幡・佐脇の砦に軍勢を展開したときのことではないだろうか。この時に一宮砦を押さえるための軍勢が砦近くに展開したはずである。砦南西の本野ヶ原に牛久保城主牧野氏の部将稲垣平右衛門が家康の救援に備えていた(「一宮町誌」)というのも砦を押さえるための軍勢の一部であったろう。 そして九月、徳川勢が八幡砦を激戦の末に占拠した。家康は戦うときには勇猛に駒を進めるが待つべき時には動かない。八幡・佐脇砦を取ったところで待った。待つのも戦いなのだ。 そのうち、牧野家臣のなかに家康へ内通する者が出てきた。さらに駿河で武田信虎(信玄の父)謀反の噂が今川の陣中に流れた。 翌、永禄六年(1563)、今川方の動揺を見て取った家康は二千の兵を率いて一宮砦に入った。敵の大軍の囲みを突き破ってというようなものではなく、易々と砦に布陣したものと思われる。 そして家康の采配によって菅沼定盈の軍勢が北から、東からは西郷清員の軍勢が砦周辺の今川勢を蹴散らした。この日、家康は砦に一泊したと伝えられている(「一宮町誌」)。 その後、今川氏真は駿河に引き上げ、三月には牛久保城が家康によって攻め落とされた。 |
▲ 砦の西側虎口は枡形の土塁遺構が良好な状態で残っている。 | ▲ 砦北側の堀切跡。小路の右が堀切となっているが、これは砦構築以前から存在した洪水時の排水用の堀跡といわれている。砦構築に際して堀代わりに利用したということらしい。 |
▲ 一宮砦を東側から望見。豊川の河岸段丘を利用して築かれている。 |
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画像の撮影時期*2009/07 |