(かのやじょう)
鹿児島県鹿屋市北田町
▲ 鹿屋城は肝付氏の分家鹿屋氏によって整備されたと見られており、
後には島津家重臣伊集院氏によって改修されたものと思われる。
(写真・南側から見た城山。)
肝付一族鹿屋氏の古城
鹿屋城の築城者として現地案内板等には「古城主由来記」を出典として「島津久経時代津野四郎兵衛、鹿屋城主」として津野氏をあげている。そして承久年間(1219-22)頃のこととしている。 伊集院忠棟は城下を整備し、城も修築され、領内には善政を布いたと言われる。天正十五年(1587)の豊臣秀吉による九州出兵の際には島津氏存続のために奔走した。文禄四年(1595)には豊臣氏から都城八万石に封ぜられ、鹿屋城を去った。 |
▲城山公園駐車場の西側の坂道を登ると火山灰の堆積したシラス崖が右手(東側)に現れる。ここに城址説明板が立っている。 | ▲説明板の所から少し行くと右に入る道がある。この道を直進すると本丸に至る。この道自体が浸食された谷間となって空堀の役目を果たしている。右側が本丸の外郭となる今城、左側が同じく中城と呼ばれている。 |
▲ 中城側に建つ「史跡・鹿屋城址」の碑。中城自体は藪化が進んでおり、立入は困難と思われた。 |
▲今城の方は路が確保されており、立入可能である。 |
▲今城の平坦部。周囲には土塁の痕跡が今も残っている。 |
▲今城から戻り、本丸へと進むと「亀鶴城址」の碑が建っている。鹿屋城の別名である。 |
▲本丸の北側はひな壇状に高くなっている。 |
▲これは2段目から3段目を見たところである。 |
▲本丸の南側は平坦地となっており、展望台が設けられている。 |
▲平坦部東側縁辺部は低いが一段高くなっており、土塁跡と思われる。 |
▲本丸南端から展望した鹿屋市街地。 |
▲鹿屋城址の説明板。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2013年8月16日 |
主要参考資料 | 「日本城郭大系18」他 |