佐田城
(さだじょう)

浜松市中央区舘山寺町


▲ 佐田城は室町時代に当地に城館を構えた堀江氏の城と伝えら
れている。しかし、遺構や文献等からはその位置が確認されておらず、
字名から類推して舘山がその城跡であったろうと見られている。
(写真・中央の半島状の山が佐田城跡と伝えられる舘山。)

領主の遺徳を慕いて地名となす

 佐田城主堀江氏が遠江の当地に来住して城館を構えたのは応永年間(1394-1429)のこととされている。初代城主は堀江光真という。

 堀江氏の発祥地は越前国坂井郡河口郷堀江庄(福井県あわら市)で、この当時は国人領主として勢力を張り、守護斯波氏との結束を強めていた。その斯波氏は遠江国の守護も兼ねており、その関係で堀江氏一族の左金吾光真が当地に根付いたものと思われる。また、堀江氏は越前三国湊の代官も務めており、水運の術にも長けていたものと思われ、光真が浜名湖に突き出た庄内半島の佐田の地を城館の地に選定したのもうなづけるというものである。

 佐田の地名は後に堀江と呼ばれたもので現在の舘山寺町の一部を指し、城は舘山にあったとされている。舘山は現在、舘山寺の伽藍が建っている東西500mほどの半島をいう。ただ城館としての遺構は確認されておらず、字名からの類推に過ぎないが、「舘山(東日本に多い)」と「城山」は同意であるから佐田城の所在を「舘山」とするのが郷土史家や城郭研究者等の見方である。確かに水上交通路を押えるという観点から言えば舘山は浜名湖全体をその視野に入れることが出来、内浦湾は船溜まりとして最適であったと思われる。

 しかし、舘山は岩山であるから堀や土塁の構築、平地の確保は困難と思われ、物見台と城主館を設けるのが精一杯ではなかったかと考えられる。郷土史家による「庄内三城物語」には、「防備の拠点として初め「舘山」(海抜50米)の山頂に築かれたと思われるこの城も、平地に乏しく岩山のため飲料水確保が難点であったろうと思われる。そこで凡そ0.4km南の要害の地に移転することになった」とある。つまり、有事に備えて現在の御陣山と呼ばれる場所に移転したと言われているのである。

 その御陣山は平場や土塁状の地形が見られるというが後世の改変の可能性もあり城跡であるのか確定的ではないが、字名は「羽城」であるから城砦であった可能性は高い。この御陣山については堀江城(現遊園地)の外城(羽城)であるとか、江戸期に陣屋(堀江陣屋)を構えた大沢氏の手によるものであるとか言われていて様々な見方がされている。

 文亀年間(1501-04)、今川氏親は伊勢新九郎(早雲)と朝比奈泰煕を大将とする大軍を西遠州へ進めて一円を支配下に置いた。この時の戦いに黒山(浜松市西区深萩町の根元山に比定)の戦いがある。この黒山に守護斯波方の引馬荘代官大河内備中守と堀江下野守が立て籠もって今川の軍勢と戦った。結果は大河内は討死して堀江は降参したと記されている。

 この時の堀江下野守というのは五代目当主堀江為清のことであろうか。為清は黒山から敗走して佐田城に戻り、最後の戦いを覚悟したと思われる。一族の中安氏や遠藤氏らも羽城(御陣山)に布陣して今川勢の来襲に備えたであろう。この時の戦いで今川勢の朝比奈助次郎という者が堀江要害城戸際に於ける働きに対して今川氏親から感状を与えられている。堀江要害とは言うまでもなく堀江氏の城のことで佐田城(舘山と御陣山)のことである(私見)。

 大永二年(1522)、今川勢に追い詰められた為清は夜陰、城に火を放ち、夫人と共に城から船で脱して対岸の大草山に渡ろうとした。しかしそこにも敵兵が待ち構えており、湖中の大岩に上がって夫人と共に自害して果てた。夜が明けて敵兵がその大岩に上がって亡骸を確かめると赤子が眠っていたという。この城主の最期と赤子の話しは稚児岩伝説として今も語り続けられている。あわれを感じた敵兵に助けられたこの赤子は成人して信忠と名乗り、その子孫は安間氏を名乗って堀江城主大沢氏とともに戦国を生き、幕藩期には堀江藩の国家老として活躍している。

 今川方に屈服した堀江氏は為清の後に子の三郎左衛門清泰が家督を許されて佐田の地を善政をもって守り続けた。天文八年(1539)、清泰、没。清泰の後は信忠、正重と続いたが領主としてではなく大沢氏の庇護下に置かれたものと思われる。

 善政を布き領民に慕われていた佐田城主清泰の死は土地の百姓たちを動かした。堀江氏の遺徳を後世に伝えようとしたしたのであろうか、佐田の地名を堀江に改めたのであった。


▲桜塚。舘山寺の南南東約1.4kmの高台にある。大永二年の佐田城落城にまつわる話が伝えられている。(2023春)

▲桜塚の説明板。「大永二年(1522)、佐田城を攻めるため女隠密を城中に腰元として送り込まれ、佐田城は落城しました。それを恨みに思った佐田(旧堀江)の人々は彼女を逆さまに埋め、その上に桜を植えた。または、城主の養女が敵の武士と恋におち、逢瀬を重ねる毎に敵に内通したものと思われ処刑をされたうえ逆さまに埋められたとも伝えられています。そして、その桜は下向きに花を咲かせたそうです。現在二代目の桜は昭和三十年に、植えられました」と書かれている。

舘山の最高所富士見岩からの眺望

▲西行岩から対岸(大草山)を見る。矢印は伝説の稚児岩。前日の大雨のため、湖水が濁っていた。

▲舘山の南側中腹にある曹洞宗秋葉山舘山寺。

▲舘山西側の頂部に建つ観音像。

▲舘山全体が岩場となっている。。

▲舘山には遊歩道が整備されている。

▲舘山東側の頂部の岩場。富士見岩と名付けられており、浜名湖が見渡せる。

▲舘山東端の西行岩。

▲対岸の稚児岩(望遠)。

▲舘山南側の入り江。矢印は御陣山。

▲御陣山。

▲舘山南側中腹の舘山寺。

▲大草山から見た庄内半島。手前の遊園地部分は堀江城跡。

▲舘山の3.6km西方にある根本山。黒山の戦いの場所と見られている。


----備考---- 
訪問年月日 2013年10月27日 
 主要参考資料 「古往今来」
 ↑ 「古城49、57号」他 

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