堀江城
(ほりえじょう)

浜松市中央区館山寺町堀江


▲ 現在、遊園地となっている城址遠景。

独立を守り抜いた
         国人大沢氏

 堀江城主大沢氏の祖は藤原道長、そして中臣鎌足にまで遡る。戦国期の武将の多くがその祖を無理矢理に源平藤橘に結びつけていたのと違い、大沢氏の場合はまさしく名家の血流であったのである。

 その大沢氏がはじめてこの地に下向してきたのは貞治年間(1362〜1364)といわれている。まだ大沢と名乗る以前で、藤原基秀といった。丹波国大沢村からの下向で、地頭職としてではないかとされている。大沢を名乗るのは基秀の子基久からである。

 時代は流れ、南北朝時代から室町時代、そして戦国の時代へと移る。大沢氏もはじめは守護斯波氏に仕えていたが、後には戦国大名として版図を拡大する今川氏に属した。永正元年(1504)、基秀のときである。

 そして代は基相、基胤と続き、世は戦国動乱の永禄年間へと突入してゆく。桶狭間合戦以後の今川氏の衰退ははなはだしく、遠江は徳川家康の進出するところとなる。

 しかし城主大沢基胤は今川に背くを潔しとせず、永禄十一年(1568)十二月の徳川家康の遠江進攻に際しては対決する姿勢をとった。

 井伊谷から引馬城を抜いた家康は一旦三河に引き上げた後、年明け早々に陣容も新たに再び遠江進攻を開始した。従うものと従わざるもののはっきりしたいま、家康は決然たる態度で臨んだ。湖北の浜名氏を放逐し、気賀の住人たちをも巻き込んだ堀川城の戦いは殺戮戦となった。基胤はこの堀川城へ援兵を出して支援している。

 三月二十五日、徳川勢による堀江城の包囲が始まった。大将は近藤石見守康用で、子の登之助秀用、そして鈴木三郎大夫重路、菅沼治郎右衛門忠久、同新八郎定盈らの軍勢であった。

 同時に堀川城における戦闘もはじまったが、わずか一日の戦いで落城してしまった。この戦いでは城に籠った老若男女二千人のうち千人がなで斬りにされたという。逃げ戻った兵の報せで堀川城の悲劇を聞いた基胤は徳川勢の非道ぶりに憤慨したことであろう。
「徳川なんぞに臆するでない」
 基胤は城兵に檄を飛ばした。

 中安兵部や権太織部といった屈強の家臣が城兵を指揮して徳川勢との果敢な戦闘がはじまった。

 堀江城は三方を湖面に囲まれた要害である。戦闘は守る側に有利に展開した。時には城兵が寄せ手の怯む隙をみて城外に突出、徳川勢を蹴散らす場面さえあった。この時、城兵の新村善左衛門が徳川方の大将近藤康用の腿を槍で突き刺す手柄をたてている。

 堀江城が容易に落とせそうもないとみた家康は鈴木権蔵に附城を築かせて長期戦の構えをとらせた。
この時期、家康は本軍を率いて掛川城の攻略にあたっており、こちらも落城できずに焦っていた。長期戦となると武田側に付け入る隙を与えることになるからである。いつまでも堀江城などに関わりあっている暇などないのが実情なのである。

 四月に入ると家康は渡辺成忠を和議の使者として堀江城へ派遣した。無論、旧領安堵の起請文を携えての交渉である。

 基胤は迷った。頼りとする掛川城は徳川勢の包囲下にある。四月四日に城内の実情と今後の下知をあおぐために掛川城へ使者を走らせていたが、何の音沙汰もない。
「今川を見限るときがきたか」
 四月十二日、基胤は和議受け入れを決断した。

 その後は徳川の家臣として各地の戦場を転戦、数々の武功をあげた。

 慶長十年(1605)、近隣に武名を轟かせた基胤は八十歳の長寿を全うして他界した。

 基胤の後を継いだ大沢氏十代基宿も武勇に秀でており、関ヶ原合戦では本多忠勝の陣に属して功名をあげ、遠江国敷知郡六ヵ村千五百五十六石を与えられている。

 時は移ろい、戦国から泰平の世へと変ってゆく。慶長十四年、基宿は従四位下右近衛権少将に叙任された。次いで権中将に叙せられ、高家に列することになった。

 高家とは幕府老中の支配下にあって儀式、典礼、勅使接待、朝廷への使節などを務める役職である。主に室町幕府以降の名家が選ばれた。

 第二十代堀江城最後の城主基寿は高家として幕末の歴史舞台に関わることになる。

 文久元年(1861)、和宮降下の付添役、慶応二年(1866)の大政奉還上奏文の伝奏役を務めた。

 慶応四年、東征軍が遠江に近づくと人馬供出の要請があり、基寿はこれに協力して勤皇の態度を明らかにした。

 現在、城址附近は館山寺温泉郷として観光開発が進み、城址そのものは遊園地と化して往時を偲ぶよすがもない。

 ただ、大沢氏の菩提寺である宿芦寺に苔むす宝篋院塔だけが歴史の重みを今に伝えてくれている。


対岸の大草山から見た城址と庄内半島

▲大沢氏の菩提寺である宿芦寺の大沢家墓所。

----備考---- 
訪問年月日 2004年3月6日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」