文明年中(1469-87)に寺部城を築城したとされる鈴木下野守重時は鎌倉期に矢並(豊田市)に拠点を置いた鈴木重善の末裔で同族に酒呑鈴木氏や足助鈴木氏(真弓山城)等がある。寺部に城を築いて寺部鈴木氏となった重時は鎌倉期からこの地域(高橋庄)の地頭であり、足利将軍の奉公衆である中条氏(金谷城)の被官として高橋庄東部に勢力を張った。この時期、松平郷から岩津、安城へと勢力を拡大していた松平氏との摩擦は必至であった。
明応二年(1493)、中条秀章は松平討伐の軍勢を起こした。上野城(豊田市上郷町)の阿部氏、八草城(同市八草町)の那須氏、伊保城(同市保見町)の三宅氏そして寺部城の鈴木氏が中条氏のもとに参じて三千の軍勢となった。軍勢は松平氏の拠点のひとつである岩津城を攻めて気勢を上げた。しかし、安城城を出撃した松平親忠率いる千五百の軍と井田野(岡崎市)で合戦となり、優勢であったはずの中条勢が惨敗を喫してしまった。戦後、中条氏の権威は失墜し、鈴木氏をはじめとする中条氏麾下の小土豪らは自立の道を歩み始めることとなって行く。
天文二年(1533)、岡崎城主松平清康が兵を岩津に進めて来た。寺部城主鈴木日向守重教は三宅氏と共に出撃して松平勢と戦ったが敵わなかった。
その後は三河に進出してきた今川氏に属していたが、永禄元年(1558)に重教は今川を離反して織田信長に属した。当然、こうした動きを今川義元が見過ごす訳がない。義元は人質として駿府で成長した松平元康(徳川家康)十七歳に寺部城攻めを命じた。元康にとっては初陣である。元康は岡崎城で松平旧臣を糾合して軍勢を整え、寺部城を攻めた。寺部城攻めに際して元康は鈴木氏に同心する梅坪城、広瀬城、挙母城(金谷城)、伊保城を攻略した後に目的の寺部城を落とし、鈴木氏は再び今川方に帰順した。義元は元康の鮮やかな勝利に感奮して太刀一腰と三河国山中三百貫を与えたと言われる。
永禄三年(1560)の桶狭間合戦で今川義元が敗死した。岡崎に松平元康が自立、翌年には織田と松平の和睦が成り、西三河の情勢は大きく変わったが寺部城の鈴木重教は今川方のままで居続けたのであろうか。
永禄九年(1566)、寺部城は織田重臣佐久間信盛の攻撃を受けて落城した。城主重教は城を脱して矢並に逃れ、さらには今川氏を頼って駿河に落ちた。
その後は織田、徳川の支配下に置かれ、豊臣時代には田中吉政の支配下に置かれた。
慶長十五年(1610)、尾張藩主徳川義直の付家老として渡辺守綱が寺部城に入った。守綱は「槍の半蔵」と呼ばれ、徳川十六神将の一人に数えられた猛者である。守綱の子孫は代々寺部に一万石を領して尾張藩の家老を務め明治に至った。
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