岩崎城は享禄年間(1528-31)に織田信秀が尾三国境の備えとして築いたものと言われている。
この頃の信秀は勝幡城を居城としていた頃で、尾張下四郡守護代の清州織田氏の三奉行のひとりに過ぎなかった。しかし、父信定の築いた経済力を背景にした信秀は守護、守護代家を凌駕する実力を持ち、尾張を代表する青年武将であったのだ。同時に三河では松平清康が国内を統一して尾張進出の機会を窺っていたのである。松平清康は永正八年(1511)生まれ、織田信秀は永正九年(1512)の生まれである。信秀は戸部村(名古屋市南区)の土豪荒川新八頼宗を岩崎城の守将とし、三百の兵を配して岩崎城を固めた。
享禄二年(1529)春、松平清康が七千余の兵を率いて尾張へ進攻、岩崎城に迫った。清康は城攻めに先立って城内に忍の者三十余人を送り込み、夜陰秘かに城門を開かせ夜襲をかけたと伝えられている。松平勢の不意打ちに城内は混乱、さらに火の手が上がり、乱戦となって守将以下城兵のことごとくが討死して落城した。
落城した岩崎城は当然のことながら清康の城となり、尾張進出の拠点として維持された。天文四年(1535)十二月三日、清康は一万の軍勢で岡崎城を出陣、岩崎城で一泊して四日に守山城へ駒を進めた。ところが翌朝になって清康は家臣に斬られて絶命、松平勢は三河へ撤退を余儀なくされた。「守山崩れ」である。
一般的には岩崎城は丹羽氏清が天文七年(1538)に築城したものとされてきたが、実際には「守山崩れ」で空き城となったものを占拠して居城としたもののようである。丹羽氏は三河一色氏を祖とする氏明が尾張丹羽郡に移住して丹羽を称したと言われ、四代後の氏従(うじより)の時に折戸(日進市内)へ移住して近在を領した。氏従の子氏員の頃には本郷(同市内)に城館を構えて本拠とした。そして氏員の子氏清の時に「守山崩れ」となり岩崎城を接収して居城としたのだと言われる。
氏清は松平清康の尾張進攻時には清康に従ったが、岩崎城接収後は織田方に戻った。在地小土豪としては余儀ない選択であり、信秀もそこのところは理解していたと思われ、丹羽氏は岩崎城を本拠として現在の日進市から長久手方面にまで勢力を拡大した。
氏清隠居して嫡子氏識(うじさと)が二代城主となると分家の丹羽氏秀が力を持つようになり、内紛が起きた。「横山の戦い」と呼ばれるもので天文二十年(1551)のことである。分家の氏秀が本家を滅ぼそうとして氏清・氏識父子が謀反を企てていると織田信長に出兵を依頼したことに始まる。
信長は家督を継いだばかりで大した兵力ではなかったと思われるが、氏秀の訴えに応じて丹羽攻めに出陣した。ところが丹羽本家の軍勢の奇襲を受けてあえなく敗走してしまった。氏識・氏勝父子の軍勢は多くの織田方の首級を討取って岩崎城に凱旋した。
この戦いは勝った丹羽氏方の記録にのみ登場するもので織田方の記録にはない。この後の桶狭間の戦いで信長は今川本陣を奇襲して大勝利を収めるのであるが、一説にはこの横山の戦いで得た戦訓が勝利に繋がったのだとも言われている。
永禄三年(1560)桶狭間の戦い後、三河では松平元康(徳川家康)が自立した。丹羽氏識は元康の説得に応じて嫡子氏勝を人質に入れ、その麾下に属した。永禄五年(1562)には松平・織田の同盟が成り、岩崎城主となった氏勝は信長に属した。その後、氏勝と嫡子氏次は信長に従って各地の戦場で武功を上げたが、天正八年(1580)に佐久間信盛、林通勝らと共に氏勝が遠国追放となった。城主氏次はその後も信長に従い戦功を上げ、時には徳川家康に従軍して活躍している。
天正十年(1582)信長が本能寺に斃れ、尾張は織田信雄の領するところとなった。天正十一年(1583)、信雄は反秀吉の信孝を切腹に追い込んだが、この時に氏次が信孝に内通していたとの噂が立った。危険を察知した氏次は一族郎党を引き連れて浜松城の家康のもとに駆け込んだ。
天正十二年(1584)三月、秀吉、家康の対立はついに両軍出陣となり、氏次は岩崎城将として城に戻って合戦に備えることになった。羽黒八幡林で両軍の戦闘が起こると氏次は八百九人の兵を率いて小牧山に出陣、岩崎城には弟の氏重を城代とし舅の加藤景常を補佐役に付け三百余の兵で守りを固めさせた。
さて、秀吉は楽田城に本陣を進めたものの両軍は対峙状態が続いた。この状況を打開するため秀吉方の池田恒興、森長可らによる三河中入り作戦が実施されることとなった。三好秀次が大将となり堀秀政が目付となったこの中入り軍は二万から二万五千の兵力であった。
岩崎城では四月九日早朝、城の近くを行軍中の中入り軍(池田隊)を発見、直ちにこれを攻撃のために出撃して弓・鉄砲を撃ち放った。本来ならまっしぐらに岡崎を目指すべきであった池田恒興はここで城攻めを下知して一斉に岩崎城に攻めかかったのである。戦いは激戦の後に氏重以下城兵の殆どが討死して落城してしまった。
この頃、氏次を道案内とする徳川勢が最後尾の秀次勢に追いつき、攻撃を仕掛けていた。岩崎落城を知った氏次は奮起して秀次勢を敗走させ、引き続く戦闘で徳川勢は勝利を収めた。いわゆる長久手の戦いである。岩崎城を落とした池田恒興や森長可といった有力武将が討死して秀吉方の敗戦となった。
戦後、家康は「戦功第一は池田を足止めにした丹羽氏重である」として氏次に三千石を加増して報いたという。
慶長五年(1600)関ヶ原合戦後、氏次は三河国伊保一万石に封ぜられて大名となった。氏次の後を継いだ氏信は大坂の陣の功により美濃国岩村二万石(岩村城)に栄転した。
岩崎城は丹羽氏の伊保移封時に廃城となった。城跡は竹や雑木に覆われたまま改変を受けることなく現在に至り、城址公園として整備され、その遺構を私たちは目にすることができる。
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