麻生田屋敷は江戸期に著された三河地域の地誌「三河国二葉松」の三州古城記には麻生田村古屋敷として記載されている中世城館跡である。遺構は明確ではないが、屋敷跡とされる玉林寺の周辺には土塁状の遺構が散見されるものの確実なものではないようだ。同じく「二葉松」には同屋敷の項に「贄掃部」とのみ記されている。
贄氏は古くから当地に住していた一族で一宮社領の御家人ではなかったかと見られている。戦国期には宝飯郡に勢力を持った牧野氏に属していたものと思われる。
この屋敷の主として伝わる贄掃部は桶狭間合戦の丸根砦攻めをはじめ三方原合戦、長篠合戦などにおいて目覚ましい戦場働きを示したことが小説などで描かれており、勇猛果敢な侍大将のイメージを彷彿させる。
その贄掃部氏信、五十の半ばになっても戦場の最前線にいた。慶長五年(1600)、信州上田城攻めの時である。関ヶ原へと中山道を西へ進軍する徳川秀忠の大軍は真田の上田城など鎧袖一触で落城するものと高を括って包囲した。贄掃部は牧野康成(上野国大胡二万石/元三河牛久保城主)の家臣であった。
牧野勢は上田城の真田勢を誘き出すために城下の田の稲を刈ることを命じられて兵を出し、大久保忠隣、本多忠政らの軍勢が真田の出戦を待ち伏せたが、贄掃部も牧野勢の一隊を率いて待ち伏せに加わっていた。案の定、真田の一隊が城門を開いて打って出てきた。これに対して待ち伏せていた諸隊は一斉に襲いかかったが、真田隊はさしたる戦いもせずに城内へと引き揚げてしまったのである。逃してはなるものかと徳川方の諸隊は一斉に城際に迫り、城攻めにまで発展してしまった。
結果は真田方の巧みな防御戦術に翻弄され、多くの犠牲をだしての惨敗となってしまった。重臣本多正信は勝手に軍を動かして城攻めに至ったのは軍令違反であるとして牧野康成と大久保忠隣に現場の指揮官の切腹を命じたのである。大久保忠隣は旗奉行杉浦惣左衛門を切腹させたが、牧野康成は贄掃部を庇って責任は我にありとして切腹させることを拒否した。しかも嫡男忠成は贄掃部を伴って出奔してしまったのである。秀忠もこれには怒り、康成は上野吾妻に蟄居させられてしまった。
その後、贄掃部は徳川頼宣に仕え、元和五年(1619)の紀州移封後は若い者たちを相手に戦ばなしを聞かせて余生を送っていたという。贄掃部、麻生田の村から桶狭間に出陣して初陣の戦場に立ったのはまだ十代の頃であったのだろう。
|