久保田城
(くぼたじょう)

豊川市御津町上佐脇西区


▲ 久保田城は南北朝の頃に落城して城主は滅びたが、難を
逃れた遺児によって帰農、繁栄したと伝えられている。
(写真・城址碑と説明板。)

落城、帰農そして繁栄の古城跡

 南北朝時代のものとされるこの久保田城は現在、宅地耕地化して遺構とみられるものは何もない。言い伝えでは「南北朝時代に城主は滅亡した(現地説明板)」とされており、その実態は謎のままである。

 東三河では石巻山(石巻山城)とその周辺で南朝方の臣高井主膳正が北朝軍(高師兼、高師泰、仁木義長)との戦いに敗れて敗亡したということが伝えられている。その際に当地に南朝方に与する一族が城館を構えていて、怒涛の大軍に一蹴されてしまったのかもしれない。

 ところが、城主の遺児は難を逃れて秘かに生き延びたようだ。時は過ぎ、遺児は成長して帰農し、子孫は繁栄したという。その末孫が現在に至る「久保田一統である(現地説明板)」とのことである。慶長年間(1596-1615)には「久保田屋敷」と呼ばれていたという。

 現在は城址とされる場所に城址碑が建てられている。城址碑の背後に説明板が立てられており、その間に饅頭のような大きな石が置かれている。訪城時にはしめ縄が巻かれ、何やら意味ありげなものと思えたが、それが何なのかの説明はされてなかった。城館資料(中世城館調査報告書)をめくると概要の項に「「門の石」があった」とあるので、この石がそうなのであろうか。

 ▲ 県道31号森交差点から南へ約350mの道路脇に城址碑が建っている。JA濃営センターの前である。
▲ 周辺は耕作地が広がり、のどかな風景を見せている。

▲ 城址碑と共に立っている説明板。

----備考----
訪問年月日 2013年4月20日
主要参考資料 「中世城館調査報告書集成・愛知」他

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