防己尾城
(つづらおじょう)

鳥取県鳥取市金沢


▲ 防己尾城は国人吉岡将監の築いた堅城である。この城で将監
は羽柴秀吉の軍勢を見事に撃退し、しかも千成瓢箪の馬印を
奪い取るほどの勝利を得、因幡の知将と今に伝えられている。
(写真・城址北側の三津崎付近から眺めた城跡。)

秀吉軍を一蹴した因幡の名将吉岡将監

 防己尾城は吉岡城とも呼ばれるように天正七年(1579)に吉岡将監定勝によって築かれたとされる。もっともここには吉岡将監が築城する以前にもそれなりの城があったようで、天文十三年(1544)に妹尾右京亮の名が伝えられているという。しかし、それ以上のことは分らないので推して知るべしである。

 さて吉岡氏であるが、太平記に吉岡安芸守が登場すると言われ、将監はその末裔にあたると言われる。南北朝期以来、湖山池西側の地を代々領して守護家である因幡山名氏に仕える国人であった。将監の父春斎の時に丸山城(鳥取市六反田)を築いて戦国争乱の時勢に対応した。しかし、丸山城は小さく低い独立丘(標高44m)であったため、大軍に囲まれればひとたまりもないと思われたために天正元年(1573)頃に標高297mの山上に城を築いて移った。箕上山城(鳥取市吉岡温泉町)という。ところが今度はあまりに峻険な山上であったためにその往来に苦労する状態になってしまった。そこで将監が湖山池に突き出た半島状の防己尾山を城塞化して本拠を移したのがこの防己尾城なのである。

 この当時、主家である因幡山名氏を継承する鳥取城主山名豊国は毛利氏に降ってその勢力下にあっため、国人衆も毛利方に属していた。吉岡将監も天正元年(1573)頃に毛利の武将吉川元春から本領を安堵されたと言われる。防己尾城を整備した頃のことと思われるが、毛利の家臣高木某が軍目付のような役でやってきて我が物顔で城内を検分、城主同然の振る舞いをしていたと伝えられている。他の国人らの城にも毛利の家臣が派遣されて同様の状態にあったのであろう。しかし、将監は虎の威を借りて威張り散らすその男を福井刑部という者に命じて討ち捨ててしまったのである。豪胆にして無欲、心根は優しく、武においては勇猛果敢、神出鬼没の武将と言われた将監らしい処置であり、城兵からは拍手喝采を浴びたことであろう。

 天正八年(1580)、天下布武を目指す織田信長の中国方面軍団長ともいうべき羽柴秀吉の軍勢が鳥取城を囲んだが、毛利の勢力下に甘んじていた城主山名豊国は家臣らの反対を押し切って秀吉の軍門に降ったために華々しい戦いも無く秀吉勢は一旦兵を退いた。すると降伏反対派の家臣らが毛利方から吉川経家を城将として迎え入れ、反織田の旗を掲げたのである。

 翌天正九年(1581)七月、再び秀吉の大軍が因幡に進出して鳥取城を囲んだのである。秀吉の徹底した兵糧攻めで鳥取城内は凄惨な飢餓地獄に陥り、四ヶ月後に落城するに至る。

 この包囲の期間中に尼子残党軍のひとりで秀吉の麾下にあった亀井茲矩(これのり)が秀吉出馬の同意を得、三百騎程で防己尾城に兵を進めて来たのである。

 城主吉岡将監は直ちに城の周りの竹林を切り払い、その切り口が侵入者を阻む剣先のようになったと言われる。そして主立つ城兵二十五騎と村民男女三百余人が籠城して守りに就いた。本丸には吉岡一門、二の丸には家老稲村兵衛が守りを固めた。三方を湖水に囲まれた城であるから陸続きは西側の一方大手口のみである。七月五日頃よりその大手口辺りで小競り合いが始まり、一時は城方が亀井の本陣を突き崩すところまで行った。


 七日、秀吉が兵を率いて防己尾城の南松原村に到着、その後船で城の北側三津崎に移って陣所とした。そして亀井勢が大手口を攻め立て、秀吉勢は船で岬に上陸して一気に本丸を攻め落とそうとしたのである。上陸はしたものの竹の切株が邪魔をするので草鞋を二枚重ねで攻め登ったという。一方の城方は鳴りをひそめて敵方の近づくのを待ち、七八分まで登り詰めてきたところで将監の号令一下攻撃を開始した。弓鉄砲はもとより、女子供も手伝って大木や石を転げ落としての必死の防戦に攻め手の秀吉勢は悉く水底に落ちて死んでしまった。秀吉方の完敗である。この時、秀吉子飼いの将多賀文蔵が千成瓢箪の馬印を将監の弟右近に奪われ、取り返そうとして討死したと言われている。秀吉は機嫌を損ね、亀井茲矩に「遠巻きにして兵糧攻めとせよ」と加勢の兵を置いて鳥取城包囲の本陣へ戻ってしまった。

 その後、亀井勢は包囲するのみで城攻めは無く、城内の兵糧は底を尽き、籠城していた村人も次第に城を抜け出して城内の人数はわずかとなってしまった。将監は「百姓が離れてしまっては領地も城も守る意味は無い」と残った者たちに城を落ちるように命じ、自らも七月下旬の夜陰に紛れて船で脱出した。翌朝、人の気配の無くなった城に気付いた亀井?矩は地団駄踏んで悔しがったに違いない。?矩は城を焼き払って陣を引き上げた。戦後、秀吉方の兵二百人ほどが城に居たと言われ、翌年には吉川元春ら七千余騎に攻められて落城したと伝えられているが、ほどなく廃城となったものと思われる。

 城を落ちた吉岡将監は諸国浪々の末、困窮極まり、やがて故郷の地に戻って田を耕し、波乱の生涯を終えたという。


▲ 本丸に建てられた城址碑。
 ▲ かつての本丸と二ノ丸を隔てる谷間に公園駐車場がある。
▲ 駐車場からの登城口。

▲ 本丸。

▲ 本丸東端部。秀吉軍との攻防が最も激しかったと思われる所である。。

▲ 本丸から眺めた湖山池。左の岬が秀吉の布陣した三津崎である。

▲ 町屋跡と伝わる本丸と二の丸間の谷地。

▲ 二ノ丸。

▲ 本丸の城址説明板。

▲ 案内図。下の山が本丸、上の山が二ノ丸。左端の岬に秀吉軍が上陸した。

----備考----
訪問年月日 2013年5月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「諸国廃城考」他

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