赤木城
(あかぎじょう)

国指定史跡、続百名城

三重県熊野市紀和町赤木


▲ 赤木城は築城名人として知られる藤堂高虎初期の築城作品として知られる。
石垣を多用し、複雑な虎口を備えたこの城は凄惨な一揆討伐の拠点であった。。
(写真・城址南側の県道40号から望遠にて俯瞰した赤木城。)

行ったら戻らぬ赤木の城へ

 天正十三年(1585)、紀州は羽柴秀吉によって平定された。この時、奥熊野地方に勢力を張っていたのは新宮を本拠とする堀内氏であった。その範囲は現在の新宮市から紀北町にかけての地域で三重県南部と和歌山県南東部といったところであろうか。紀州攻め時、当主の堀内氏善は秀吉に臣従したことにより戦火に見舞われることなく本領は安堵され、和泉、大和、紀伊の領主となった羽柴秀長の配下となった。

 秀吉体制下に置かれたことで、この熊野地方も近世化への変革が求められることになる。その象徴的なものが検地であった。変革には反発が伴うのも常である。

 天正十四年(1586)、北山地域(熊野山間部)に一揆が起きた。秀長は自ら出陣して討伐にあたったが、九州攻めのために中途半端なものに終わったと言われる。

 天正十六年(1588)、多尾城(熊野市五郷町寺谷)に拠る一揆勢を秀長の代官吉川平介(又は平蔵)と堀内氏善が攻めてこれを討伐した。

 熊野は良質の木材産出地として知られ、吉川平介は山奉行の立場を利用して二万本の木材を大坂へ送り、その代金を着服するなどして私腹を肥やしていたことが発覚した。秀吉は激怒して吉川平介を捕縛、処刑して洛中にその首を晒した。

 吉川平介失脚の後、天正十七年(1589)に秀長麾下の藤堂佐渡守高虎、羽田長門守が北山代官として一揆討伐を再開した。この時にこの赤木城が築城されたと言われる。今では後に多くの築城を手掛けることになる藤堂高虎の初期の築城作品として喧伝されている。小規模ながら複雑な虎口形態と石垣の多用という近世城郭の手法が随所に見られる貴重な城でもある。

 藤堂らによる一揆討伐は峻烈を極め、赤木城南西の田平子峠では捕えられた一揆方の人々が処刑梟首された。この時、高虎は周辺の村々に赤木城の完成を祝いに登城せよと触れを出し、祝儀に登城してきた地侍や村人たちを一挙に捕縛して田平子峠で打首に処したという話が伝わっている。この地方の里謡にも「行ったら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」と歌い伝えられている。

 なお、現地説明板には「藤堂佐渡守は天正十三年の紀州攻めの際に北山入りし、文禄四年(1595)四国伊予三郡を与えられるまでの十一年間北山付近に在居し、この間二度の北山陣で一揆方を成敗したり北山材の切り出しを行っているのでこの頃に現在の城郭に整備したものと考えられる」とある。

 後に北山一揆と呼ばれるこの一揆は慶長十九年(1614)にも起きている。大坂冬の陣に呼応したもので、豊臣方の意を受けて蜂起したのである。紀伊は関ヶ原後に浅野幸長が封じられ、冬の陣当時は長晟が当主(和歌山城主)であった。当然、長晟以下浅野勢は大坂城の攻囲に出陣した。一揆方はその留守を衝いて新宮城を乗っ取ろうとしたのである。北山の一揆勢は新宮城の外堀ともいえる熊野川の対岸にまで迫ったが、留守の城方によって追われ、さらに冬の陣和議後に帰還した浅野勢によって徹底した討伐を受けて壊滅した。この際にもこの赤木城が浅野方の拠点として利用されたと言われている。この時も一揆に加担した沢山の人々が田平子峠で処刑されたという。

 その後、赤木城がいつ頃まで機能したのかは伝えられていないが、発掘調査によって出土した遺物が16世紀末から17世紀初頭のものとされており、一揆鎮圧後は廃されたものと思われる。ゆえに後世の改変を受けることなく山に埋もれてきたおかげで、私たちは400年前の姿に復元整備された城跡を目にすることができるのである。


▲ 主郭虎口の石垣。平成4年(1992)から13年間か
けて石垣の積み直しなどの復元整備が行われた。

 ▲ 赤木城跡駐車場入り口。
▲ 車を降りると城そのものの姿が見渡せる。

▲ 整備された登城路を登りきると東郭である。

▲ 東郭から見た主郭石垣。

▲ 虎口下段と呼ばれる主郭に至る最初の枡形。ここには階段が無く、梯子のようなもので登っていたと考えられている。

▲ 虎口上段と呼ばれる部分で、二つ目の枡形となる。

▲ そして主郭への最後の枡形虎口となる。

▲ 主郭に建てられた城址碑。

▲ 主郭側から見た虎口。

▲ 主郭から見た東郭。

▲ 主郭から見た西曲輪。

▲ 主郭北側に設けられた北郭。

▲ 主郭北面の張り出し部分。ここには櫓が建てられていた可能性があると言われ、横矢掛けで防御効果を高めている。

▲ 主郭正面(南面)の石垣。やはり横矢掛けを可能とする張り出しが設けられている。

▲ 主郭から南東方向の眺望。山間に棚田が広がるのどかな風景である。

----備考----
訪問年月日 2013年3月2日
主要参考資料 「日本城郭全集」
 ↑ 「三重の山城ベスト50を歩く」他

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