北九州の古豪、大蔵氏を遠祖とする秋月種雄が当地秋月荘を賜って土着したのは鎌倉時代の建仁三年(1203)のことである。以来、秋月氏は古処山城を詰城、その山麓の荒平城を里城として代を重ねた。
戦国時代、当地における最後の当主十六代種実は豊後大友氏によって奪われていた秋月の地を毛利氏の支援を受けて奪還、さらに島津氏と同盟して筑前、筑後、豊前に兵を進め、十一郡三十六万石を支配、支城は二十四城を数えたと言われ、秋月家の絶頂期をもたらした。しかし、天正十五年(1587)の豊臣秀吉の九州征伐の大軍の前に降伏した。この時、天下の名器「楢柴(ならしば)」の茶入れを献上して滅亡を免れたと言われている。九州平定後、秋月氏は領地を没収され、日向財部(高鍋)三万石に移封された。種実は秋月を去るにあたり、「たとえ十石の知行でもよい、秋月に留まりたかった」と嘆いたと伝えられている。日向に移った秋月氏は高鍋藩三万石の大名として十代を経て明治に至った。
秀吉の九州平定によって筑前・筑後は小早川隆景に与えられ、古処山城は廃された。隆景の後、秀秋が継いで関ヶ原となる。
関ヶ原合戦(1600)後、黒田長政が筑前五十二万三千石(福岡藩)に封ぜられ、秋月には長政の叔父黒田直之(官兵衛孝高・如水の弟)が一万二千石を与えられて入部した。この直之が居館を構えたのが秋月城の前身となるものであったと思われる。
直之は兄如水と同じくキリシタンであった。彼の信仰心は熱烈なもので城下には天守堂を建て、多くの信徒がそこに参集するようになった。この時期、秋月は九州伝道の本拠地として栄えたと言われている。慶長十四年(1609)、直之没。秋月に来てわずか十年、四十五歳であった。
元和九年(1623)、福岡藩二代藩主忠之は長政の遺言に従って弟長興に秋月五万石を分知して立藩させた。秋月に入った長興は直之の古屋敷を再普請して居城とし、城下町を整備した。これが現在私たちが目にする秋月城である。
城とはいえ、西面に一筋の堀と石垣、五基の櫓を設けただけのもので、城郭としての機能には乏しいといえる。よく秋月陣屋として紹介されることが多いのはこのためであろう。しかし藩の格式は城主格であったから秋月城と呼ぶべきかも知れない。
天明四年(1784)、七代藩主長堅が嗣子無く早逝したため秋月藩は取り潰しの危機を迎える。福岡本藩も秋月藩廃絶を画策するも秋月藩家老渡辺典膳の奔走によって翌年に日向高鍋藩七代藩主秋月種茂の二男長舒(ながのぶ)を迎えることに成功した。奇しくも先祖の地に藩主として迎えられた長舒は叔父である上杉鷹山を範として「経世済民」の善政を布いた。
その後、十二代藩主長徳(ながのり)の時に明治を迎え、明治六年に廃城となった。
明治九年(1876)、熊本の神風連の乱に呼応して旧秋月藩士二百五十五名が決起したがほどなく新政府軍によって鎮圧された。しかし士族の新政府に対する不満は収まることなくこの四ヵ月後の西南戦争となって暴発することになる。
現在も武家屋敷や土塀が残り「筑前の小京都」と呼ばれている。城跡の苔むす石垣からは秋月数百年の歴史の哀愁が感じられてならない。
|