小口城
(おぐちじょう)

愛知県丹羽郡大口町城屋敷1


▲小口城は室町期に尾張守護代であった織田伊勢守敏広の弟広近によって築かれた。
広近は兄の守護代を支え、尾張の平安のために力を尽くした武将として伝えられている。
(写真・小口城址公園南入口と物見櫓。)

守護代を支えた実力者織田広近の居城

 八代将軍足利義政の時代、尾張国の守護は斯波氏であった。斯波氏は越前、尾張、遠江三ヵ国の守護を兼ねて京都に居住しており、任国の統治は守護代が担当していた。尾張国の守護代は織田伊勢守敏広であった。

 織田敏広の弟、遠江守広近は兄の尾張支配に積極的に協力しており、長禄三年(1459)頃には美濃国土岐氏に備えて尾張北部に城を築いて居城としている。この城が小口城である。大久地城または箭筈城とも呼ばれている。

 文正元年(1466)、応仁の乱の前年であるが、京都では将軍義政や諸大名間の権力闘争が激しくなっており、尾張守護斯波氏も家督をめぐって激しく対立していた。こうした状況下で諸大名はそれぞれ兵を上洛させて屋敷の警戒に当たらせるなどした。守護斯波義廉も軍勢を招集、織田広近が従兄弟の広久、広泰らと共に千人の兵を率いて上洛している。

 文明元年(1469)、広近は美濃との国境を固めるため、犬山に木之下城を築いている。文明七年(1475)には守護斯波義廉が焼野原となった京都から尾張へ下国、守護所(下津城)へ入った。翌年には義廉と家督争いを繰り返している斯波義敏の命を受けた織田大和守敏定が守護所を焼き払い、同十年(1478)には義敏の後継義良の守護代として清州城に入った。

 守護代を罷免された織田敏広は文明十一年(1479)に岩倉城を築いて居城とし、上四郡の支配を維持しようとした。

 文明十三年(1481)、岩倉城主で広近の兄敏広が没すると、広近は敏広の子千代夜叉丸(寛広/とおひろ・広近の子とも言われる)と共に守護義良に帰順した。織田氏の内紛状態に終止符を打とうとしたのである。さらに守護代織田敏定(清州城)と共に上洛、将軍所政と日野富子らに進物して内乱和睦の報告をしている。

 その後、広近は尾張の平安を願いつつ長享元年(1487)に隠居、延徳三年(1491)に没した。家督は次男寛近(とおちか)が継いで小口城主となったと思われる。

 天文十三年(1544)、この頃になると清州織田氏の家臣である織田信秀が尾張の実力者として台頭しており、寛近は信秀の要請を受けて美濃稲葉山城(岐阜城)攻めに参陣している。天文二十年(1551)には病床の信秀に代わり、斎藤道三と美濃守護との争いを仲裁する文書を発している。寛近もまた父広近の遺志を継いで平和のために力を注いでいたものと思われる。

 次に小口城の名が史上に登場するのは永禄五年(1562)頃のことである。この頃、犬山城主織田信清が領地問題で清州城の織田信長と対立、楽田城を奪取するという事態が起きており、信長による犬山城攻略が始まろうとしていた。

 この時期、小口城には信清の家老中嶋豊後守が城主となって居た。信長は犬山城の支城を落としつつ小口城に迫った。しかし、小口城はなかなかの堅塁であったらしく、織田勢は攻めあぐね、信長の家臣岩室長門守が討死するなどして兵を退いている。そこで信長は小牧山城に進出して小口城を威圧し、丹羽長秀を小口城内へ派遣したのである。

 中嶋豊後守は丹羽長秀の説得に応じ、黒田城主和田新介と共に信長に臣従を誓ったのである。永禄七年(1564)、中嶋豊後守の協力によって犬山城が落城、織田信清は甲斐へ逃亡した。

 犬山落城によって小口城の存在意義は無くなり、廃されたようである。

 それから二十年後の天正十二年(1584)、尾張は再び戦乱の舞台となる。廃墟となっていた小口城跡に羽柴秀吉の軍勢が入り、堀を深くし、土塁・柵を築いて小牧山城に布陣する織田信雄と徳川家康の軍勢に対する拠点となったのである。いわゆる、小牧・長久手の戦いである。

 小口城の周辺は稲葉一鉄が守備に就いたとされ、六月二十八日には楽田付近で小口衆と小牧(徳川)衆が小競り合いとなったことなどが記されている。十一月に両陣営が和睦となると小口城の塀や柵は犬山城へ移され、兵糧は長島城へと運ばれて再び廃城となった。


城址公園の南入口。名古屋城二の丸大手二の門をイメージして造られたという

▲模擬の物見櫓。

▲城址公園に近づくとこの高さ17mの物見櫓が現れる。もちろん、模擬である。

▲城址公園の南側は堀、石垣、橋、門などが整備され、城郭の雰囲気を演出している。

▲公園南側入口の門。

▲門前に建つ城址碑。

▲城址碑と並んで立てられた説明板。

▲公園内の展示棟。小口城の歴史や出土品が展示されている。

▲展示棟前の井戸跡。

▲同じく展示棟前に保存されている野鍛冶炉跡。ここがかつての城跡であったことを証明する貴重な遺構である。

▲小口城址公園の表入口。

----備考----
訪問年月日 2015年2月21日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「まんが大口町の歴史」他

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