延元元年(建武三年/1336)年、一旦は足利尊氏の和議を受け入れて京都に戻った後醍醐天皇であったが、幽閉状態に置かれた花山院を年の瀬も押し迫った十二月二十一日の夜、密かに三種の神器と共に脱出した。向かった先は吉野であった。南北朝時代の幕開けである。
これまで後醍醐天皇を支えてきた楠木正成や新田義貞を失った吉野朝(南朝)は天皇の多くの皇子たちを各地に派遣して退勢の挽回を図ろうとしていた。その皇子たちのひとり天台座主尊澄は後醍醐天皇の重臣北畠親房に伴われて伊勢に下った。
伊勢国内でも南部の宮方に呼応する土豪が尊澄と北畠親房を迎えた。愛洲、潮田、加藤の諸氏であった。この時、尊澄が居所としたのが愛洲氏の拠る一之瀬城であったとされる。
翌、延元二年(1337)春、尊澄は還俗して宗良を名乗った。宗良親王は後に南朝の復興を背負って各地を転戦する生涯を送ることになるのである。
この年の夏、宗良親王は、
深山をばひとりないてぞ時鳥(ほととぎす) われも都の人はまつらむ
と詠っている。
これは親王の歌集である「李花集」に収められた和歌で、その詞書には、
延元二年夏の比(ころ)、伊勢国一瀬といふ山の奥にすみ侍りしに郭公(ほととぎす)を聞きて
とある。このことから親王がここ一之瀬城に滞在していたとする根拠となっているのである。
宗良親王はこの後ほどなくして東国の南朝勢結集のために義良親王、北畠親房、北畠顕信、結城宗広らと共に伊勢大湊を出帆した。ところが船団は遠州灘沖で暴風に見舞われて散り散りとなってしまった。義良親王は三河湾篠島へ、北畠顕信と結城宗広らは伊勢に吹き戻されてしまう。北畠親房だけは関東にたどり着き、宗良親王は遠州の浜に上陸して井伊氏(三嶽城)に迎えられた。
その後、一之瀬城の愛洲氏は南朝方として足利幕府軍との戦いに明け暮れ、北畠氏と共に田丸城を拠点として活躍した。
興国三年(康永元年/1342)、幕府軍によって田丸城が落城した。この時に伊勢南部の諸城も落城したようで、一之瀬城も落城したものと見られている。
この頃、愛洲氏は当地の東約10kmの地に五ヶ所城を築いており、後にそちらを居城とするようになる。
一之瀬城のその後のことはよく分からないが、愛洲氏の支城として維持された可能性もあろうか。
天正三年(1575)、北畠氏の家督を継いだ織田信雄が田丸城を居城とするにあたり、城主田丸直昌と田丸一族は城を出た。この時、直昌の父田丸具忠が一之瀬城に入ったと言われている。具忠がいつまで居たか分からないが、ほどなくして廃城となったものと思われる。
|