五ヶ所城
(ごかしょじょう)

県指定史跡

三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦


▲五ヶ所城は伊勢南朝方として活躍した愛洲氏の居城として知
られている。愛洲氏に関する来歴や事績には明確でない部分が
多いが、南伊勢に勢力を持った土豪であったことは確かである。
(写真・五ヶ所城主郭。)

伊勢南朝の土豪、愛洲氏の居城

 五か所城の城主とされる愛洲氏のことに関しては分からないことが多いようである。その名が史料上最初に見えるのは暦応二年(延元四年/1339)の神山城(松阪市)の戦いに南朝方として愛曾(愛洲)六郎左衛門尉が出陣し、北朝軍を撃退していることであろうか。ただし、いつ頃から五ヶ所城を拠点とするようになったのかは明確ではない。

 この頃、愛洲氏は一之瀬城(五ヶ所城の西約10km)も拠点としており、後醍醐天皇の皇子宗良親王を御迎えし、宮方の勢力を糾合していた。康永元年(興国三年/1342)には玉丸城(田丸城/度会郡玉城町)の戦いに南朝方として愛洲弾正忠宗家、三郎左衛門宗実が参戦していることが知られる。この翌年には五ヶ所城が北朝方仁木義長に攻められたことが伝えられており、愛洲氏の五ヶ所土着をこの頃とするのが一般的になっているが、宝徳年間(1449-51)とする説もあって確定的ではない。

 戦国期の大永七年(1527)、愛洲弾正親忠が家督を国忠に譲って玉丸へ進駐したことが記されている。この頃には五ヶ所城も愛洲氏の居城として整備されていたことは確実であろう。

 この頃の事として陰流の祖として知られる愛洲移香斎久忠が諸国を武者修行して剣の奥義を極めたとされている。この陰流が上泉信綱によって新陰流となり、さらに柳生石舟斎によって柳生新陰流へと派生してゆくこととなる。

 天正三年(1575)、北畠氏の家督を継いだ織田信雄(北畠信意)は田丸城を改修して居城とした。翌年、信雄は三瀬館の北畠具教を謀殺、田丸城にも北畠一族を呼び出して謀殺してしまった。

 この時、北畠勢は五ヶ所城を包囲して攻め落としてしまったと伝えられている。最後の城主となった愛洲治部大夫重明が妻(北畠具教の娘)を実家に帰したことが発端となったとされており、現地の牛鬼伝説となって言い伝えられている。籠城戦は三日続き、城主重明は城を脱して迫子(志摩市浜島町)の呑湖庵に逃れ、隠棲したとされている。しかし、家老久平友晴の密告で北畠氏の知るところとなり、重明は自刃してしまったという。

 その後、田丸直昌の弟虎熊(具勝)が一之瀬城から五ヶ所城に入ったと伝えられているが、詳細は分からない。ほどなく廃城となったものと思われる。


▲西側から見た城山。左が愛洲の館、右は駐車場となっている。
 ▲五ヶ所城西麓に建てられた「愛洲の館」。陰流発祥の地らしく半分が剣道場、半分は資料館となっている。五ヶ所城址の地形模型などが展示されている。
▲愛洲の館前にある五ヶ所愛洲関係案内図。

▲愛洲の館裏には城址へ直登できる階段が設けられている。「鍛錬の段」と名付けられているようにかなりきつそうである。城址へ上るにはこの階段と別に城山の北側山裾を回って裏側に出る遊歩道が整備されている。階段は下りに利用することにして遊歩道の方へ歩むことにした。

▲山裾を進むと岩場に八幡社が祀られている。創立年代は不明であるが愛洲氏の代に祀られたと伝えられているとのことである。

▲「剣道先師頌徳碑」。剣祖愛洲移香斎の里ということで剣道が盛んなようである。

▲城址北側を流れる五ヶ所川の清流。

▲城址北側山裾に残る井戸跡。上から綱が垂らされていた。大正10年頃に発掘された際に径22cmほどの釣瓶桶底が出土したと説明されている。

▲井戸跡を過ぎたあたりから登山道となる。

▲登山道を登って数分で城址の東側にでる。案内板の所から竹林へと入る。

▲案内板のところから竹林を西へ向かうと空堀が現れる。

▲正面が主郭への虎口である。

▲左(南)を向くと空堀。

▲そして土塁。

▲主郭へ向かう。

▲主郭に入るとまずこの説明板である。

▲説明板の横に建つ「五箇所城阯」の碑。

▲主郭(T郭)の様子。

▲主郭内に建つ「愛洲公顕彰碑」。

▲顕彰碑の横に建つ「剣祖愛洲移香斎生誕之里」の碑。

▲主郭北側に残る土塁跡。

▲主郭南側の空堀に隔てられた削平地。U郭とされている。

----備考----
訪問年月日 2015年6月6日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「愛洲物語」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ