(みとじょう)
:県指定史跡(空堀、土塁)・国指定特別史跡(旧弘道館)・百名城
茨城県水戸市三の丸
▲水戸城は当初、馬場氏の城館が築かれたことから馬場城と呼ばれた。戦国期に江戸氏の
城となってから水戸城と呼ばれるようになる。江戸氏の後、常陸国の大名となった佐竹氏の
居城となり、関ケ原後は徳川氏の城となった。以後、水戸徳川家の城として明治に至った。
(写真・三之丸(現・県庁舎)西側の空堀。)
覇者たちの城から御三家の城へ
鎌倉初期、平将門の伯父国香の子孫で吉田郡の豪族石川次郎家幹の次男である馬場小次郎資幹(すけもと)が当地に城館を築いたことにより水戸城の歴史が始まる。ただし、水戸の名が使われるようになるのはまだ後のことである。それまでは一般的には馬場城と呼ばれる。 |
▲旧水戸城薬医門。水戸城唯一の現存建造物である。本丸の表門である橋詰門と考えられ、廃城後城外に移設されていたが昭和56年(1981)に現在地(水戸第一高校/旧本丸)に移築・復元された。太く頑丈な木割や形状から佐竹氏時代のものとされている。 |
▲石垣化されることなく土の城として明治を迎えた。 |
▲本丸跡に移築復元された薬医門。 |
▲本丸跡は水戸第一高校の敷地となっているが薬医門の見学者は入口の駐車スペースを利用することができる。 |
▲駐車スペース背後は本丸西側の土塁が巡っている。 |
▲高校入口に立てられた水戸城の説明板。 |
▲高校入口に架かる本城橋。 |
▲本城橋は本丸と二之丸の堀切に架かっている。掘底はJR水郡線が通っている。 |
▲二之丸は御殿の建っていた曲輪であったが現在では小中学校や高校が立ち並ぶ区域となっている。旧彰考館跡には水戸市立第二中学校が建ち、その門前には史跡碑が建てられている。 |
▲彰考館跡に建つ「大日本史編纂之地」碑。明暦3年(1657)、二代藩主徳川光圀の志によって編集が始められ、寛文12年(1672)にその編集所を彰考館と名付けたという。彰考とは「歴史をはっきりさせて、これからの人の歩む道を考える」という意味らしい。 |
▲二之丸から三之丸に向かう道沿いには石碑や銅像が建てられている。 |
▲「茨城百景・弘道館と水戸城址」の碑。 |
▲御製碑。「たのもしく よはあけそめぬ 水戸の町 うつつちおとも たかくきこえて」昭和天皇が終戦直後に水戸を訪れた際の御製で復興が進む水戸市街の様子を見渡されて詠まれたものと説明されている。 |
▲二之丸西側土塁前に建つ初代藩主「徳川頼房公」の像。 |
▲二之丸と三之丸に架かる大手橋。 |
▲この大手橋も巨大堀切を跨いでいる。堀底は県道232号線の道路となっている。 |
▲大手橋西側に建つ九代藩主「徳川斉昭公」の像。藩校「弘道館」の創設者である。 |
▲国指定特別史跡となっている旧弘道館の碑と正門。 |
▲弘道館は三之丸に建てられている。写真は玄関である。 |
▲玄関のすぐ奥は諸役会所の広間で、床の間には「尊攘」と大書された掛け軸がかかっている。幕末の尊王攘夷思想の原点がここ弘道館であった。 |
▲弘道館北側の文館跡を散策しながら西へ向かう。 |
▲弘道館西側には孔子廟、鹿島神社などがある。これは学生警鐘と呼ばれるもので、学生に時を告げたり用事のあるときに鳴らされたという。斉昭公(烈公)自鋳の鐘と言われている。 |
▲茨城県三の丸庁舎。旧三之丸にはこの他に県立図書館や水戸警察署などの建物が建っている。 |
▲県庁舎の西側に目を移すと土塁が現れる。 |
▲土塁の反対側は空堀である。 |
▲城としての遺構を色濃く残す空堀は約220mほどになる。 |
▲県立図書館。 |
▲最南端部分の堀跡。堀の向こうの建物は警察署である。 |
▲堀の反対側の土塁。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2015年5月2日 |
主要参考資料 | 「日本城郭総覧」 |
↑ | 「水戸城本丸史談」他 |