百地砦
(ももちとりで)

三重県伊賀市喰代


▲百地砦は伊賀忍者の領袖のひとり百地丹波守の居館城址である。天正伊賀の
乱に際し、丹波守はこの居館(砦)を焼き払って戦いに臨んだと言われている。
(写真・百地砦主郭と城址碑。)

伊賀流上忍、百地丹波守の城砦

 百地氏がここ喰代(ほうじろ)の地に居住して勢力を張ったのはいつ頃のことであったのかは明確ではないが、「三国地志」に天文十三年(1544)の項にその名が記されているらしく、戦国期には当所に城砦を構える土豪として名を馳せていたようである。

 当初は竜口城(名張市)を居所としていたが「百地家由緒書」によると百地丹波守泰光が天正四、五年(1576、77)の頃に子の中務大輔泰久を伴って喰代邑に移ったとあるらしい。

 百地氏といえば百地三太夫の名がよく知られているが、丹波守と同一人であるとか丹波守の孫であるとか言われて定まらない。また、上忍の一人藤林長門守は百地丹波守と同一人物であるとまで言われているから、何が何だか分からなくなってしまう。さらには、砦跡の近くにある「式部塚」の伝承を見ると、奈良朝、または南北朝の頃に丹波守は南都守護の北面の武士であったとまで言われているから、その実態は謎と言わざるをえない。

 いずれにしても百地丹波守は藤林長門守や服部半蔵と並ぶ伊賀忍者の上忍三家に数えられており、伊賀土豪衆の中でも特異な存在であったことは間違いない。忍者の頭目ということもあってか、その実像が不明瞭なのも分かるような気がする。

 史料的に百地丹波守の名が現れるのは天正伊賀の乱の時であろうか。当時の伊賀国は守護による支配は無きに等しく土豪衆による自治状態にあった。惣国一揆と呼ばれるものである。

 天正七年(1579)九月、三瀬の変(天正四年/1576、三瀬館)で北畠氏を滅亡させ、伊勢国を掌握した北畠信意(織田信雄)は父信長に無断で一万余の軍勢をもって三方より伊賀国に攻め込んだ。第一次天正伊賀の乱である。信意(信雄)は本隊八千人を率いて長野峠から、秋山右近将監国近は千三百人で青山峠から、柘植三郎左衛門保重は千五百人をもって鬼瘤越えからそれぞれ伊賀に進攻した。

 この戦いで百地丹波守は鬼瘤越えの馬野口に出撃したようで、主将柘植保重、副将日置大膳の軍勢を福持氏らと共に迎え撃ち、得意の神出鬼没の山岳戦で撃退した。この戦いで柘植保重は伊賀十二人衆の一人植田光次に討ち取られて戦死した。その他の峠口の戦いでも北畠勢は伊賀衆の抵抗によって敗走、二千人以上の損害を出したという。

 伊賀攻めの敗報を受けた織田信長は激怒して信意(信雄)を叱責、親子の縁を切るとまで言わしめたのであった。

 天正九年(1581)九月、信長は五万の兵を動員して六ヶ所から伊賀攻めに踏み切った。総大将は一応、信意(信雄)である。

 これに対して伊賀衆は平楽寺(後の伊賀上野城)に千五百人、比自山城に三千五百人と多くの女子供が籠城して織田勢の来襲に備えたが、徹底した破壊と殲滅戦で進撃する大軍の攻撃にやがて両城とも落城してしまう。そして残兵は柏原城(名張市)に集結して最後の戦いに臨むことになる。

 この時の百地丹波守の動静はよく分からないが、この柏原城に籠城して戦ったことが伝えられている。籠城に際して、丹波守は喰代の城砦(百地砦)を自ら焼き払ったと考えられていることから、一族一党をあげて決死の抗戦を覚悟していたものと思われる。

 結局、柏原城は城兵の生命と引き換えに開城して伊賀の乱は終結した。百地丹波守はこの籠城戦で討死したとも、脱出して逃げ延びたとも言われており、真相は分からない。


▲主郭西側の大土塁と説明板。

 ▲永保寺。広域農道である伊賀コリドールロードを進むと永保寺前に「百地氏城跡」の案内板が立っているので、そのまま車を境内に乗り入れた。

▲本堂の南側に案内板が立っており、徒歩でそちらに向かう。

▲伊賀四国八十八ヶ所の石仏が並ぶ路を進む。

▲石仏の路を抜けると舗装路に出る。左へ少し行くと休憩所があり、砦跡への入口となる。

▲休憩所の反対側は丸形池と呼ばれる堀跡である。

▲休憩所から東へ入ると案内板が立っており、砦内への階段が見える。

▲この階段は主郭への虎口となっている。

▲虎口から主郭へ入るとその先にも虎口がある。裏虎口と呼ばれている。

▲東側土塁にも切れ目があり、そこから隣接する郭へ通じている。

▲主郭の大土塁。

▲案内板の絵図。

▲絵図の中の主郭部分。

▲主郭内に建つ「伊賀流上忍百地丹波守城趾」の碑。

▲主郭の西側部分の土塁は虎口付近に比べて低くなっている。

▲主郭内に立つ説明板。

▲城址碑横の説明板。

▲主郭南側の空堀趾を隔てた所にある式部塚。

▲式部塚。「南都女官式部之塚」とある。百地三太夫が南都北面の武士として勤番中に恋仲となった女官式部が三太夫を追って訪ねてきたが、三太夫の妻に殺されてしまった。後日、三太夫はここに樒を植えて供養したと伝えられている。

----備考----
訪問年月日 2015年9月5日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「近江の山城ベスト50を歩く」他

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