(ももちとりで)
三重県伊賀市喰代
▲百地砦は伊賀忍者の領袖のひとり百地丹波守の居館城址である。天正伊賀の
乱に際し、丹波守はこの居館(砦)を焼き払って戦いに臨んだと言われている。
(写真・百地砦主郭と城址碑。)
伊賀流上忍、百地丹波守の城砦
百地氏がここ喰代(ほうじろ)の地に居住して勢力を張ったのはいつ頃のことであったのかは明確ではないが、「三国地志」に天文十三年(1544)の項にその名が記されているらしく、戦国期には当所に城砦を構える土豪として名を馳せていたようである。 |
▲永保寺。広域農道である伊賀コリドールロードを進むと永保寺前に「百地氏城跡」の案内板が立っているので、そのまま車を境内に乗り入れた。 |
▲本堂の南側に案内板が立っており、徒歩でそちらに向かう。 |
▲伊賀四国八十八ヶ所の石仏が並ぶ路を進む。 |
▲石仏の路を抜けると舗装路に出る。左へ少し行くと休憩所があり、砦跡への入口となる。 |
▲休憩所の反対側は丸形池と呼ばれる堀跡である。 |
▲休憩所から東へ入ると案内板が立っており、砦内への階段が見える。 |
▲この階段は主郭への虎口となっている。 |
▲虎口から主郭へ入るとその先にも虎口がある。裏虎口と呼ばれている。 |
▲東側土塁にも切れ目があり、そこから隣接する郭へ通じている。 |
▲主郭の大土塁。 |
▲案内板の絵図。 |
▲絵図の中の主郭部分。 |
▲主郭内に建つ「伊賀流上忍百地丹波守城趾」の碑。 |
▲主郭の西側部分の土塁は虎口付近に比べて低くなっている。 |
▲主郭内に立つ説明板。 |
▲城址碑横の説明板。 |
▲主郭南側の空堀趾を隔てた所にある式部塚。 |
▲式部塚。「南都女官式部之塚」とある。百地三太夫が南都北面の武士として勤番中に恋仲となった女官式部が三太夫を追って訪ねてきたが、三太夫の妻に殺されてしまった。後日、三太夫はここに樒を植えて供養したと伝えられている。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2015年9月5日 |
主要参考資料 | 「日本城郭総覧」 |
〃 | 「近江の山城ベスト50を歩く」他 |