上野城
(うえのじょう)

国指定史跡、百名城

三重県伊賀市上野丸之内


▲上野城は伊賀衆の寺院城郭であった地に羽柴秀吉の命により筒井定次が伊賀
統治のために近世城郭化したものである。慶長十三年(1608)には藤堂高虎が伊勢・
伊賀を拝領して上野城を拡大改修した。大坂の豊臣氏との対決に備えるものであった。
(写真・藤堂高虎の築いた天守台に建設された復興天守/2016年12月)

秘蔵の国の城

 上野城は他国の同名の城との混同を避けるために通常「伊賀上野城」と国名を冠して呼ぶ。

 天正九年(1581)九月、「天正伊賀の乱」として知られる織田信長の伊賀攻めが行われた。四万四千の大軍を動員して五方向から一斉に伊賀へ攻め込み、徹底した皆殺し焦土戦術であったと云われている。

 このとき、伊賀六十六家と呼ばれる国内の国人、土豪らが集結したのがここ上野山であった。ここには真言宗の平楽寺が建立され、多くの堂塔伽藍が立ち並び、平時は伊賀衆の合議の場となり、戦時には城塞として活用できるように矢狭間や土塁で固められていた。上野の地は伊賀の府城としての歴史をすでに刻んでいたのである。

 乱当時、ここ上野山平楽寺には約千二百人が籠城して戦ったと伝えられている。軍事的には上野山の西約3`ほどの比自山の方が適していたようで三千五百人ほどが籠城したと云われている。

 この戦いで伊賀衆は特異な武術を駆使して奇襲を繰り返して善戦したが、大軍相手の長期戦となっては兵糧・弾薬も尽き、上野山、比自山と相次いで落城、最後の牙城であった柏原城(名張市)の戦いでついに十月二十八日に和睦が成立して乱は終わった。

 乱後、伊賀四郡のうち三郡が伊勢で北畠の名跡を継いでいた信長の次男信雄に与えられた。

 翌天正十年六月、信長が本能寺に滅ぶと天下は羽柴秀吉によってまとめられてゆく。天正十三年(1585)、秀吉は畿内を身内で固めようと異父弟の秀長を大和、和泉、紀伊三ヶ国百万石の太守に任じた。そして秀吉は大和郡山城の筒井定次に伊賀十万石への転出を命じたのである。
「伊賀は秘蔵の国なり、文武の技量なくしては治め難し」
 と秀吉は定次を戒めたという。

 定次は大和国内を統一した筒井順慶の甥で、前年に順慶が病没したためにその後を継いでいたのである。文武に秀でた美青年であったという。

 定次は上野山平楽寺跡に居城とすべき府城の築城をはじめた。現在の上野城の原型はこの筒井氏によって出来たのである。

 慶長五年(1600)、関ヶ原合戦の年である。この本戦に先立ち伏見城を攻略した西軍毛利秀元ら三万の大軍は伊勢方面を攻略するために鈴鹿峠を越えた。このうち摂津高槻城主新庄直頼・直定父子の千余の軍勢が上野城を囲んだ。

 このとき、筒井定次は上杉討伐のために徳川秀忠の軍に属して宇都宮に向かっていた。このため上野城は定次の兄十郎玄蕃允が約二百の兵で留守を守っていたに過ぎなかったのである。多勢に無勢、玄蕃允は戦わずして開城、高野山に上って謹慎してしまった。

 関東の地で石田三成の挙兵と上野城が西軍の手に落ちたことを知った定次は急いで帰国し、筒井家に従う伊賀衆に迎えられて上野城を包囲した。

 上野城を占拠していた新庄直頼は事態の急変に恐れをなしたのか、人質にしていた定次の嫡子小殿丸を返してあっさりと開城、伏見へ退去した。

 上野城を奪還した定次は直ちに関ヶ原へ向かった。関ヶ原では石田三成の陣に対面して布陣、黒田長政、細川忠興らとともに石田勢と戦った。皮肉にも定次の重臣であった島左近が石田勢の先頭に立って戦っていたのである。

 島左近はもとは筒井順慶の家臣で、次いで定次に従い、伊賀では中ノ坊飛騨守と並んで家老を務めていたのである。それが島、中ノ坊それぞれの知行地の百姓間で起きた水争いがもとでこの両家老の仲も険悪となり、ついに島左近が筒井家を辞してしまったのであった。そして浪人中の左近を石田三成が一万五千石で召抱えたのである。当時の三成の禄高は四万石であったから破格の待遇であったわけである。

 それはともかく、有為の家臣を引き止めておくだけの器量が定次には欠けていたと云わざるをえない。

 関ヶ原合戦後、筒井家は伊賀二十万石を安堵された。帰城した定次は高野山に謹慎していた兄の玄蕃允を呼び戻し、城明け渡しの責任をとらせて切腹させてしまった。たとえ戦国の世とはいえ、兄に死を迫るなど軽率、無慈悲な主君としか云いようがない。その後は家臣に対しても横暴な振舞いが目立つようになり、また領民に対しても年貢を引き上げるなどして士民の不満は高まる一方となってしまった。

 慶長十三年(1608)、家臣(葭田内膳)の死を賭した諫言も定次には通じず、ついに幕府は失政を理由に筒井藩改易に踏み切った。定次は奥州岩城に配流され、慶長十九年大坂冬の陣の年に自決して果てた。

 慶長十三年九月二十八日、上野城に藤堂高虎が入った。伊勢、伊賀の太守としてであった。

 無論、対豊臣戦略の一環として徳川家康が信頼のおける高虎をこの地に配し、豊臣有事の際の先鋒とするためであったのだ。こうした家康の戦略の裏で筒井家改易が断行されたと見ることもできよう。

 藤堂高虎は伊勢国の津城を本城としつつも対豊臣戦を想定して慶長十六年から上野城の大改修を実施した。

「もし大坂方との戦いに敗れたならば、わしは上野城に籠り、高虎とともに戦う」
 と家康は云ったという。

 築城を進める高虎も気合が入ったに違いない。現在も本丸西側の高さ30bを超える石垣は日本一と云われている。さらに五層の天守を建造させていたから、完成後の上野城はまさに天下の名城と呼ぶに相応しい威容となる予定であった。伝説では高虎が天下一の名城を築くために伊賀忍者を全国各地に走らせ、58ヵ国148城の縄張図を盗写させたといわれている。

 ところが天守の完成も間近い翌十七年九月、暴風雨のために倒壊してしまった。高虎は同時に津城の修築も進めており、財政的事情からか、その後天守閣の再建を行わなかった。

 慶長十九年、大坂冬の陣。翌年、夏の陣と続き、藤堂勢は先鋒として木村、長宗我部の軍勢を八尾・若江の戦いで打ち破った。その功あって三十二万石に加増され、伊勢・伊賀を永代の地として保証されたのであった。

 高虎は先にも述べたように本城は津に置き、伊賀の支配は上野城代に任せた。はじめは、城代には身内の藤堂高清が務めたが、寛永十七年(1640)高清没後は藤堂采女元則が城代となった。

 采女の本姓は保田で伊賀の郷士であった。また徳川家臣服部半蔵正成の甥でもあった。半蔵の父は伊賀の出身である。無論、服部家も保田家も忍びの家であった。伊賀の支配は伊賀人に任せたことになる。

 以後、上野城代は明治維新に至るまで代々采女家がつとめた。「秘蔵の国」と呼ばれた伊賀を大きな混乱もなく藤堂家が支配し続けえたのは高虎の伊賀人重用によるところが大きい。

 幕末、慶応三年(1867)十月の大政奉還当時、藤堂藩は上野城代藤堂采女を総帥とする七百十人の藩兵を上京させて山崎関門と高浜砲台の守備にあたっていた。いうまでもなく主力は伊賀兵である。
 やがて鳥羽・伏見の戦いとなり、総帥の采女は本藩の承諾を得ずに独断で官軍に転じた。徳川特恩家で佐幕色の濃い藩である。采女は切腹覚悟で断を下した。越前、尾張、彦根といった徳川家に最も近いはずの藩が次々と新政府側につくという状況にあって藤堂藩のみが徳川家に固執していたのではいずれ滅びると見越したのであろうか。

 筒井時代、藤堂時代を通じて伊賀の歴史の節目となった裏には表舞台には出てこない伊賀忍者たちの壮絶な戦いと活躍があったのであろう。

 昭和十年(1935)、地元出身の代議士川崎克氏が私財を投じて天守閣を建造した。暴風雨で倒壊して以来じつに三百二十余年にして天守閣が完成したことになる。

▲ 本丸北側の高石垣。(2006年11月)

▲ 本丸に建つ「築城記念碑」。(2006年11月)

▲ 本丸西側の高石垣。(2006年11月)

▲ 天守閣入口では藤堂高虎公が出迎えてくれる。(2006年11月)

▲筒井氏時代の石垣。(以降の写真は2016年12月再訪時のもの)

▲これも筒井氏時代の石垣。

▲右側が筒井氏時代の本丸石垣。

▲ 城代役所西側の石垣。

 ▲外側から見た城代役所の石垣。

▲筒井氏本丸から見た藤堂氏の本丸。

 昭和十年に地元の代議士川崎克氏の私財によって建てられた木造三層の天守閣である。「攻防策戦の城は滅ぶ時もあるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」と川崎氏はこの天守閣を「伊賀文化産業城」と命名した。

▲昭和の天守。
 ▲築城記念碑。

▲天守西側。

▲天守西側の石垣近くには大量の栗石が山となっている。石垣の裏込石であるとか、合戦時に使う礫用の石であるとか言われている。

▲30mの高さを誇る高石垣と内堀。

▲高石垣の案内には日本一・二の高さと微妙な言い方で紹介されている。

▲内堀から見た高石垣。

▲ 伊賀上野は俳人松尾芭蕉の生誕地でもある。城内には芭蕉生誕300年を記念して川崎克氏により「俳聖殿」が建てられた。建物の外観は芭蕉の行脚姿をあらわしている。


----備考---- 
訪問年月日 2006年11月 
再訪年月日 2016年12月29日 
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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