津城
(つじょう)

県指定史跡、続百名城

三重県津市丸之内


▲津城は戦国期には安濃津城と呼ばれ、関ヶ原合戦に先立ち西軍三
万の軍勢を相手に孤軍奮闘したことで知られる。その後、藤堂高虎の
入部によって城は大きく改修され、藤堂藩の府城として明治に至った。
(写真・東鉄門の石垣上に建造された三層模擬櫓。)

築城名人高虎によって完成した津の府城

 この地が単に津と呼ばれるようになったのは藩政期以後のことで、それ以前は安濃津と呼ばれていた。したがって戦国期の津城は安濃津城と呼んだ方が良さそうである。

 安濃津は古来日本三津のひとつに数えられた天然の良港であった。それが明応七年(1498)の大地震で地形が変わり、遠浅となってからは港(津)としての機能が失われたと言われている。

 この安濃津の三角州地帯にはじめて城を築いたのは長野氏分家で安濃城主の細野藤光、藤敦父子であったとされている。時期は永禄年間(1558-70)のことであったようだ。

 それから間もなく、永禄十一年(1568)には織田信長の伊勢進攻が始まり、北伊勢の関氏(神戸城亀山城)を降して中伊勢に進出した織田勢によって安濃津城はその支配下に置かれた。安濃津城には北畠氏の押えとして織田掃部忠寛が守将として入城した。

 永禄十二年(1569)、長野氏(長野城)の後嗣となった織田信包が入部して安濃津城に入った。山上の不便な長野城を廃したのである。しかし、この当時の安濃津城は砦程度の小城であったはずで、とても地域支配の府城として相応しいものではなかった。信包は長野家臣であった分部光嘉に上野城(津市)を築かせて仮城とし、その間に安濃津城の大改修に着手した。

 五層の天守と小天守を備えた安濃津城が完成したのは天正八年(1580)であった。信包は上野城を分部光嘉に譲り、様相一新した安濃津城に居を移した。そして最後まで敵対を続けていた細野氏の安濃城や雲林院氏の雲林院城を攻略して中伊勢の支配を確立したのである。

 天正十年(1582)、本能寺の変後、信包は羽柴秀吉に属して十五万石を領したが、文禄三年(1594)には丹波柏原に転封となり、翌文禄四年(1595)に富田知信(一白)が六万石で入城した。

 慶長五年(1600)の関ヶ原時、遺領を継いだ信高は下野小山から急ぎ安濃津城に戻り、西軍石田方の来攻に備えた。上野城主分部光嘉も安濃津城に入城して協力した。城内には千七百の兵が籠城戦に備えたが西軍は毛利秀元や吉川広家ら三万の軍勢で安濃津城を攻囲してきた。八月二十四日のことである。

 攻防戦の最中、信高が敵中で苦戦しているところへ鎧兜に身を固めた若武者が駆けつけ城主の危機を救ったという逸話が伝えられている。この若武者は信高の妻であったという。しかし多勢に無勢、翌二十五日には本丸以外は敵手に落ちてしまった。二十六日早暁、高野山の木食上人が西軍の降伏勧告を伝えてきた。信高はこの勧告を受け入れて開城、高野山に入った。

 戦後、安濃津城の攻防戦を聞いた徳川家康は信高らの奮戦を称賛、二万石を加増して城に戻した。城に戻った信高は合戦で焼失した五重の天守に替えて三重の天守を再建した。

 慶長十三年(1608)、信高は伊予宇和島(宇和島城)へ転封となり、藤堂高虎が今治城から伊賀・伊勢二十二万石を拝領して入部した。

 高虎は伊賀上野城を本拠としたが、平素は安濃津城を居城とした。慶長十六年(1611)、高虎は安濃津城の改修、拡大に着手した。城下には参宮街道を取り込み、「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」とうたわれるほど賑わうようになった。高虎の改築した城が現在呼ばれている津城である。
 寛文二年(1662)、城下の大火が延焼して三重の天守が焼失した。以後、津城に天守は再建されることは無かった。

 寛文九年(1669)、二代藩主高次は次男高通に五万石を分知して支藩久居藩(久居陣屋)を立藩した。

 文政三年(1820)、十代藩主高兌(たかさわ)が藩校「有造館」を創設した。この講堂の赤門が現在の城内公園に移築されている。

 慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦いで津藩は薩長側について幕府軍を攻撃した。この津藩の行動が維新を加速させたことは言うまでもない。


▲西之丸西側の堀と石垣。犬走りを備えた石垣は藤堂高虎の築いたもので、伊予今治城と同じである。
▲駐車場からまず目に入るのがこの三層の櫓である。昭和33年(1958)に高虎入府350周年事業として建造された。櫓門のあった場所に建てられており、隅櫓本来の場所ではない。
▲高虎公句碑。「しらはたや花さく山の一備へ」高虎が関ヶ原合戦を想った句らしい。

▲「お城公園」の碑。

▲津城本丸東側の虎口。東鉄門の枡形である。

▲本丸跡。中央に噴水が設けられている。

▲本丸跡の噴水西側に建つ「藤堂高虎公」の騎馬像。

▲西之丸跡。現在は日本庭園として市民散策の場となっている。

▲藩校「有造館」の講堂の正門「入徳門」。廃城後も学校等の正門として使われ、移設を繰り返していたが昭和46年にここ西之丸跡に移設保存された。

▲本丸天守台。当初は五層の天守、関ヶ原時に焼失して三層の天守が建てられたが江戸期に焼失してからは再建されることはなかった。

▲本丸南側の石垣。かつては広大な内堀に面していたが、現在では完全に埋め立てられてしまっている。

▲本丸丑寅櫓跡から見た北側の堀。

▲本丸北側の堀と石垣。藤堂高虎によって拡張された部分で、幅広の水堀であったが今では埋立が進み、1/4ほどになっている。

▲西之丸北側の堀と石垣。

▲西之丸の土橋。

▲説明板の縄張図。

----備考----
訪問年月日 2014年11月15日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「日本城郭全集」他

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