安濃城
(あのうじょう)

三重県津市安濃町安濃


▲安濃城は伊勢中部の国人長野氏の一族細野氏が築いた山城で
ある。居館地を山麓に設けず、山上に屋敷地を取り込んだ形態の
城である。ただひとり、織田氏に抗し続けた細野氏の居城であった。
(写真・南側から見た安濃城址遠景。)

織田に反目し続けた細野氏の城

 伊勢中部の国人長野氏の一族であり重臣でもある細野藤光は弘治年間(1555-58)に細野城(津市美里町)から当地に城を築いて移った。この城が安濃城である。安濃津城(津城)と混同される場合もあるようだが、全くの別物であることは言うまでもない。

 永禄元年(1558)に本家長野氏の当主藤定は北畠具教の次男具藤を養子を迎え、臣従することで長年にわたる北畠氏との抗争に終止符を打った。細野藤光が安濃城を築いて間もなくのことであった。

 永禄三年(1560)、藤光が没すると嫡男藤敦が家督を継いだ。ちなみに次男光嘉は分部光高の養嗣子となって分部氏を継いだ。

 藤敦は居城である安濃城をより強固に改修した。山上の城郭の中に居館を設けるという中伊勢地域では数少ない形態であると言われている。その藤敦、北畠氏から長野氏当主となった具藤とは仲が悪かったという。

 永禄十一年(1568)、伊勢に進撃した織田信長に対して長野家中では分部光嘉らが和睦派となって信長の弟信包を長野家当主に迎えようと画策していた。これに対して藤敦は徹底抗戦を主張して譲らず、安濃城に籠城して織田勢の先鋒滝川一益の攻撃に耐え抜いた。そこで分部光嘉らは当主具藤に藤敦が織田に寝返ろうとしているとの流言を吹聴した。これを信じた具藤はただちに藤敦討伐に乗り出すのであるが、逆に藤敦勢に居城の長野城を攻められて北畠氏の本拠地である多気郡へ退転してしまったのである。結局、分部光嘉ら和睦派の思惑通りに事が運び、織田信包が長野氏当主となったのである。

 安濃城の細野藤敦は当主を追放してしまった手前、信包を迎えざるを得なかったのであろう。

 天正四年(1576)、三瀬の変と呼ばれる織田方の北畠氏抹殺の変事が起きた。三瀬館に隠居した北畠具教とその家臣や家人ら四十数人が殺害され、田丸城に呼び出された長野具藤も同時に殺された。

 こうした織田方のやり方に暗澹たる思いをした者たちは少なくなかったと思われる。細野藤敦もこうした織田氏に心底から服する気になれなかったに違いない。藤敦は織田信包が年賀のために伊勢を離れた留守を衝いて挙兵、長野城を奪回したと言われる。信長は滝川一益の子を藤敦の養嗣子とすることで和解を持ちかけたが、やはり織田に服する気になれず、天正八年(1580)ついに信包と衝突、安濃城に立て籠ってしまった。

 すでに織田方による伊勢支配が確立した今、藤敦が籠城しても多くの兵は集まらなかったものと思われる。孤軍奮闘すれど衆寡敵せず、藤敦は城に火を放って落去、安濃城は落城した。築城後わずか二十数年にして安濃城の歴史は幕を閉じた。

 その後、細野藤敦は蒲生氏郷を頼ってその臣下に列し、蒲生氏と共に奥州などへ転戦した。蒲生氏減封後は豊臣秀吉に仕え、伏見城松の丸守将となって秀吉側室松の丸殿の家司を務めた。関ヶ原合戦時(1600)には西軍に属したため失領し、慶長八年(1603)京都にて没した。享年六十四歳であった。


▲本丸南縁の土塁跡。
▲登城口の鳥居。
▲山上の神社へ続く参道の山道。

▲山上の鳥居をくぐると本丸跡である。

▲本丸跡に建つ阿由多神社。

▲本丸東側の堀。

▲本丸西側の土塁。

▲本丸西側の櫓台。

▲本丸の神社前に立つ説明板に描かれた安濃城復元想像図。

▲同じく説明板の縄張図。

----備考----
訪問年月日 2014年11月15日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「日本城郭全集」他

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