上野城
(うえのじょう)

三重県津市河芸町上野


▲上野城は長野氏一門の分部氏が築いた城で、当初は織田信包
が安濃城の完成を待つ間の仮城に充てられた。その後、分部光嘉
に与えられ、最終的には伊勢上野藩二万石の府城となった。
(写真・本丸と櫓台跡に建つ展望台。)

伊勢の戦国を生き抜いた分部氏の城

 分部氏は伊勢中部の国人長野氏の庶代祐政の孫高景が足利尊氏に仕え、曾孫光久に至って分部を称したのにはじまる。

 戦国期天文年間(1532-55)当時の分部氏当主は光高であった。光高に嗣子なく、安濃城主細野藤光の次男光嘉を養嗣子とした。

 永禄十一年(1568)の織田信長による伊勢進攻に際し、光高は川北長郷と共にいち早く信長に通じた。光高は織田の先鋒滝川一益の陣営に赴き、和睦のために織田氏より養子を迎えて長野氏の存続を約して欲しいと主張したと言われている。これに対して信長は弟信包を長野氏の養嗣子とすることを認めたとされる。安濃城主細野藤敦の反対もあったが、結局は光高の画策通りに事が運び、信包を長野氏当主に迎えることに成功したのであった。

 翌永禄十二年(1569)、信長は伊勢南部を支配する北畠氏の攻略に乗り出した。この北畠攻めには当然長野氏一党も先駆けして第一線で戦った。この戦いで光高は北畠氏の武将山崎左馬介に討たれて戦死したと言われる。養嗣子となっていた光嘉(十七歳)はこの戦いで初陣を果たし、同時に養父の戦死によって分部氏の家督を継いだ。

 元亀元年(1570)、戦死した分部光高の奔走によって長野氏の当主に迎えられた織田信包は若くして分部氏の当主となった光嘉が気に入ったらしくここ上野の地に城を築かせた。それまでの長野氏の居城(長野城)は山奥にあって不便であったため、これを廃して伊勢街道を扼した安濃津に新たな城を築こうとしたのである。当時の安濃津には砦程度の小城があったが、これを大改築する必要があり、その間の仮城として上野城を築かせたのである。光嘉は突貫工事で上野城を築いて信包を迎えると、安濃津城(津城)の築城指揮を信包から命ぜられた。

 天正元年(1573)、近江小谷城が落城して浅井氏が滅びた。浅井長政とお市の方の娘である茶々、初、江が信包預かりとなって上野城に過ごしたことが伝えられている。

 天正八年(1580)、安濃津城が完成して信包は上野城から移った。そして上野城には城代として光嘉を入れたのである。

 天正十年(1582)の本能寺の変後は信包に仕えると同時に徳川家康とも親交を重ねたと言われる。

 文禄三年(1594)、信包が改易となると光嘉は豊臣家臣に列して、翌年には三千石を与えられて独立した。その後も加増が続いて慶長三年(1598)には一万石の大名となった。

 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦に先立ち、光嘉は西軍勢の来襲に備えて安濃津城に籠城した。この当時の安濃津城主は富田信高であった。しかし、三万の大軍に攻められては抗し難く、二日ほどの激闘で降伏開城を余儀なくされてしまった。光嘉は開城後に高野山へ上がった。

 慶長六年(1601)三月、安濃津城の奮戦の様子を聞いた家康は光嘉に一万石を加増して伊勢上野藩二万石を立藩させた。しかしこの年十一月、籠城戦の戦傷が癒えずに他界してしまった。享年四十九歳。

 光嘉の後は娘婿の光信が継ぎ、元和五年(1619)に近江大溝城二万石に転封となった。これにより、上野藩は紀州藩領となって廃藩、上野城も廃城となった。


▲本丸南西縁に残る土塁。
▲現在、城域は「本城山青少年公園」となってグランドや土俵、遊具などが建造あるいは設置されている。
▲公園の駐車場。本丸の北西側一段低い場所で、かつての曲輪跡である。

▲本丸跡。

▲本丸の北西端には一段高くなった櫓台の跡があり、展望台が建てられている。

▲上野城は大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」ゆかりの地でもある。

▲展望台前の説明板に描かれた縄張図。

▲展望台からの眺め。木々の向こうに伊勢湾が青く光っていた。

▲本丸の南東一段下がった二之丸跡。

▲二之丸から南東へさらに一段下がった曲輪跡。展望エリアとなっているが木々に遮られて眺望はよくない。

▲展望エリアにあった江姫の公認キャラクター「ゴーちゃん」。

▲二之丸と展望エリアの間に残る空堀跡。

▲展望エリアに立つ説明板。

----備考----
訪問年月日 2014年11月15日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「三重の山城ベスト50を歩く」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ