比良城
(ひらじょう)

愛知県名古屋市西区比良3


▲比良城は織田信長の家臣佐々成政の父成宗が築いた城である。成政は相次ぐ
兄たちの戦死によって家督を継いで比良城主となり、信長の黒母衣衆として活躍した。
(写真・光通寺境内に建つ城址碑。)

信長の黒母衣衆佐々成政の居城

 天文(1532-55)のはじめ頃、守護代織田氏の臣佐々伊豆守成宗が築いた比良城は東西68m、南北72mで二重の堀が周りを囲む小城であった。しかしながら、小城とはいえ「当城ほどの良き城は無し(信長公記)」とまで言われるほどの名城であったらしい。

 築城者の佐々成宗は近江国の出身(諸説あり)で佐々木氏の末流であったようだ。はじめは佐々木姓であったのがいつの頃からか「木」がなくなって「佐々」になったという。斯波、六角の争いのなかで斯波家臣織田氏に従って尾張にやってきたらしい。最初は比良城の北西2kmの井関城を居城としていた。清州織田氏(清州城)の配下であったというが、井関城は岩倉織田氏の岩倉城に近い位置にある。

 比良城築城当時は清州織田氏家中の織田信秀が尾張第一の実力者であった。清州と敵対関係にあった岩倉織田氏も信秀の妹を娶っており、信秀との関係は平穏なものであった。佐々成宗もいつしか秀信に従うようになっていたのであろう。

 成宗が井関城を長男隼人正政次に譲って比良城に移ってから間もなく、天文五年(1536)に内蔵助成政が生まれた。三男とも第五子ともいわれる。

 天文十一年(1542)の三河小豆坂の合戦には成政の長兄政次と次兄孫介が織田信秀に従軍して活躍、小豆坂七本槍の勇士に数えられた。

 信秀亡き後、佐々氏は嫡男信長に従う。天文二十四年(1555)、守護代家を滅ぼして清州城に移った信長は末森城の弟信行と対立するようになる。比良城はそうした状況下で清州城の外郭的存在であったようである。翌年の弘治二年(1556)に起きた信長と信行の戦いである稲生合戦では信長勢が勝ったが、この戦いで信長麾下にあった佐々孫介が討死している。

 永禄三年(1560)の桶狭間合戦では織田勢が今川義元を討取って信長の名を天下に知らしめたが、この戦いで長兄政次が戦死している。

 相次ぐ兄たちの死により、成政が家督を継いで比良城主となった。

 この頃のことであろうか、「信長公記」の巻首「蛇かえの事」としてこんな話が伝えられている。

 比良城の近くに「あまが池」があって、そこには身の毛のよだつおそろしき大蛇がいると言われており、蛇池とも呼ばれていた。その話を聞いた織田信長は真偽のほどを確かめようと近郷の百姓どもを招集して池の水を汲み出した。ある程度池の水が減ったところで信長自ら水中に潜って大蛇を探したが見つからず、清州に帰ったというのである。実はこの時に比良城ではある陰謀が企てられていたのである。この時期、比良城主佐々内蔵佐(成政)に逆心の風説が流れており、大蛇探しにかこつけて信長は必ず比良城に立寄り、城主に切腹を迫るに違いないと思われた。そこで家臣の一人が私にお任せあれと信長刺殺の手順を披歴したのである。ところが準備万端整えて信長の来城を待っていたのだが、大蛇探しが終わるとさっさと清州に帰城してしまったということで空振りに終わった。「大将は万事に御心を付けられ、御油断あるまじき御事にて候なり」。

 以上は概略であるが、要するに大将たる者常に油断があってはならぬ、ということを言いたかったのであろう。ただし、成政逆心の風説についての真偽は分らない。

 その後、成政は信長のもとで功を重ね、永禄十年(1567)には黒母衣衆に抜擢され、さらに鉄砲隊の指揮官として幾多の合戦に臨んでいる。

 天正三年(1575)、越前攻略軍の柴田勝家の与力として越前府中に移り、前田利家、不破光治と共に府中三人衆のひとりに抜擢された。

 越前に移った成政は小丸城を築いて居城としたため、比良城は廃城となったとされている。

 その後、成政は天正九年(1581)に越中国十万石を与えられて富山城に移った。信長の死後、羽柴秀吉の時代になると肥後国を与えられて隈本城(熊本城)に移った。しかし、肥後国では成政の失政によって国人一揆が起こり、結局その責めを負わされて摂津尼ケ崎にて自刃して果ててしまった。享年五十三歳、波乱に満ちた生涯であったといえる。

 ちなみに比良に残された三男雄助は母方の姓である早川氏を名乗って代々当地に住み続けたと言われている。


城址に建つ光通寺の山門。境内に城址碑が建つのみで遺構は無い

▲「信長公記」の「蛇かえの事」の舞台となった池である。

▲光通寺境内墓地内に建つ城址碑。「佐々成政城址」となっている。

▲城址説明板。

▲比良城址の南約600mの所に「蛇池」がある。

▲池に突き出るようにして建つ蛇池神社。

▲「蛇池」の説明板。

----備考----
訪問年月日 2015年2月21日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「改訂信長公記」他

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