松岡城
(まつおかじょう)

町指定史跡

長野県下伊那郡高森町下市田


▲松岡城は平安時代にまで遡る松岡氏の居城である。実際に築城されたのは
南北朝時代と見られており、現在の遺構は戦国時代に完成されたものであろう。
(写真・松岡城本丸と城址碑。)

松岡氏五百年を支えた段丘の城

 松岡城の城主であった松岡氏は平安時代の前九年の役(1056-62)で源頼義に滅ぼされた安倍貞任の次男仙千代が当地(市田郷牛牧村)に逃れ、郷民に推されて地頭となり、松岡平六郎貞則と名乗ったのを始まりとしたと言われている。この当時の居館は松岡城址の北西約500mの松岡古城跡がそうであったとされ、鎌倉期を通じてそこに住していたようである。

 ここ松岡城が築かれたのは南北朝時代と見られており、松岡伊予守貞景(道山心公)の時である。松岡城の他に支城、属城など十余城が築かれ、段丘下東側に安養寺を建立するなどして松岡氏の国人としての成長がうかがえる。

 室町時代には守護小笠原氏に属して大塔合戦(応永七年/1400)、結城合戦(永享十二年/1440、結城城)などに出陣している。

 永正期(1504-21)、松岡貞正の時代に領地は山吹、市田、座光寺、上郷に及び、下條氏や小笠原氏と並んで南信に於ける有力者となった。

 天文二十三年(1554)、武田信玄の伊那谷進攻により、松岡氏はその軍門に降った。松岡氏は武田重臣山県昌景の与力となり、五十騎(約二百人)の軍役を果たしたという。最終形態としての松岡城が完成したのはこの武田氏支配時代であったものと思われるが、どうであろうか。

 天正十年(1582)、織田信長による甲州征伐時、松岡城主兵部大輔頼貞は信長に服従して本領を安堵された。それも束の間、本能寺の変後は徳川家康の支配下となり、その麾下に服した。

 しかし天下の情勢は定まらず、天正十三年(1585)、家康の力で松本城主となった小笠原貞慶が豊臣秀吉方に変心して徳川方の高遠城を攻めたのである。この当時の松岡当主右衛門佐貞利も小笠原氏に同調して高遠城攻めに加わるために松岡城を出撃した。ところが小笠原勢大敗の報を受けて松岡貞利は途中で兵を引き返したのである。大誤算である。しかも家臣の座光寺次郎右衛門によって出撃の事実を伊那郡司菅沼定利に密告されてしまい、捕縛されてしまったのである。

 捕縛された松岡貞利は井伊直政のもとに預けられた。直政みずから申し出たのである。

 直政の父直親は幼少の頃(天文十三年/1544)、今川氏の追っ手を逃れ、松岡氏の松源寺(現城址X郭内)に十二年間匿われて成長したという経緯がある。直親は弘治元年(1555)に遠江井伊城に戻り、永禄三年(1560)に家督を継いで井伊氏当主となった。

 直政は父直親の受けた恩に報いようと赦免の嘆願を続けたものと思われるが、天正十六年(1588)に松岡貞利へ所領没収改易が申し渡された。伊那谷に根付いた松岡氏五百年と松岡城の歴史はあえなく幕を閉じてしまった。

 その後、貞利は井伊直政の彦根に移り、五百石を給されたという。


二の丸と三の丸の間の堀切(二の堀)。右側が二の丸である。

▲二の丸にあった説明板の鳥瞰図。
 ▲松源寺前の駐車場。
▲松源寺。X郭、又は西総構と呼ばれる城内にある。

▲松源寺から東へ進む。

▲眼前に見事な空堀が現れる。三の丸手前の堀である。

▲三の丸。

▲三の丸と二の丸の土橋。

▲二の丸。

▲二の丸にあった説明板の縄張図。

▲二の丸に建つ慰霊之碑。松岡氏五百年と刻まれている。

▲二の丸と本丸の間の空堀。

▲本丸西辺に残る土塁。

▲本丸。

▲本丸東端の城址碑。

▲本丸からの展望。

▲遠くの山並みは南アルプス/明石山脈である。

----備考----
訪問年月日 2015年8月14日
主要参考資料 「高森町パンフ/松岡城跡」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ