井伊城とは井伊谷を根拠地として勢力を張った井伊氏の居館城のことである。通常、井伊氏の居城として知られる井伊谷城の南東麓に位置する平城である。城山と呼ばれる井伊谷城は山頂部を削平して土塁を巡らしただけの単郭のものであったから、物見台あるいは避難所的なものであったと思われる。ともあれ、五百年以上にわたって井伊氏の居城となっていたのはこの平城である井伊城なのである。
井伊氏初代共保が井伊谷に居館を構えたのが平安時代の長元五年(1032)のことと伝えられている。その後、井伊氏は南北朝の争乱期に南朝宗良親王を井伊城に迎え、高峰三嶽城に籠って足利の大軍と戦っている。南方崩壊後は守護今川氏に従うも、戦国期に入ると二十代直平が今川氏親に反して戦い、三嶽城に籠って戦った。
国人領主として独自の道を歩み続けた井伊氏も二十二代直盛の頃になると今川氏の被官として従属するようになる。
天文十三年(1544)、戦国大名となった今川義元の傘下で安泰の日々を送っていた井伊家に激震が走った。当主直盛の叔父直満、直義の二人が家老小野和泉守政直(道高)の讒言によって今川義元の命で誅殺されたのである。小野和泉守の讒言は直満兄弟に「逆意あり」とのみ伝えられているだけで具体的なことは分らないが、下剋上の野望があったのかも知れない。というのも直盛は嫡男に恵まれず、娘が一人だったのである。直盛は直満の子亀之丞を婿に迎えて家督を継がせようとしていたのである。井伊が絶えれば小野が取って代わる。和泉守はそう考えたのかも知れない。実際に直満の子亀之丞(九歳)は命の危険を察し、直満の家臣今村藤七郎正実によって一旦渋川の東光院に逃れ、そこから信州伊那郡松源寺に移って十年間養育されたのである。
一方、直盛の一人娘は許婚(亀之丞)と離ればなれとなったことで世をはかなみ、龍潭寺(井伊家菩提寺)にて出家してしまったのである。龍潭寺二世南渓和尚(直満の兄)はこの惣領家の娘に「次郎法師」と僧俗の名を付けた。
天文二十三年(1554)、家老小野和泉守が病死した。家老の他界を待っていたかのように当主直盛は信州に使いを出し、亀之丞を呼び戻した。家老小野氏の力は当主直盛でさえ遠慮するほどであったのだ。
弘治元年(1555)、二十歳の青年に成長した亀之丞は晴れて井伊谷に戻り、直盛の養子となった。井伊肥後守直親と名乗った。許婚であった直盛の一人娘次郎法師は出家の身であつたため一族奥山因幡守朝利の娘を娶った。
永禄三年(1560)、駿河、遠江、三河の三ヵ国を支配する今川義元はついに尾張攻略の軍を発した。井伊隊は義元本隊先手を命ぜられ、直盛は多くの家臣を率いて出陣した。ご存知の通り、この軍事行動は桶狭間の戦いとなって義元は織田信長の奇襲を受けて討たれてしまう。直盛らは義元本陣の前衛となって二俣城主松井宗信らと行動を共にしていた。本陣が襲われ、義元討死の報に驚いた松井隊、井伊隊はすぐさま本陣に駆け付け、織田勢と乱戦となったが競い立つ織田勢の前に壊滅してしまった。この戦いで当主直盛以下一族重臣十六人が討死したと伝えられている。
直盛の戦死により直親が家督を継いで当主となった。翌年、嫡男虎松(直政)が誕生した。
永禄五年(1562)、義元の後を受けた氏真であったが、桶狭間以後は三河の諸氏が離反し、この年になると遠江の被官衆も動揺しはじめ、その引き締めにやっきとなっていた。
そうした矢先、家老小野但馬守道好は直親が謀反しようとしていると氏真に讒訴したのである。三河の松平元康(徳川家康)と通じていると訴えたのであった。氏真はただちに討伐の軍勢を差し向けようとした。しかし今川重臣新野左馬助親矩(舟ヶ谷城)の諌言によって討伐軍の発進は見送られたという。新野左馬助の妹は桶狭間で戦死した直盛の妻であり、左馬助自身も井伊一族奥山氏から嫁を娶っており井伊氏とは強い姻戚となっていたのである。新野氏の諌言で軍の発進は思い止まった氏真であったが、今度は直親に駿府へ出頭して申し開きせよと命じたのである。
この年十二月、直親は二十人ほどの供廻りで駿府へ向かった。ところが掛川城下に至った時、突如掛川城主朝比奈泰朝とその軍勢に襲われて直親以下ことごとくが討取られてしまったのである。その後朝比奈勢は井伊城にも押し寄せ、城兵の防戦も空しく、家臣残らず生害したという。
若き当主直親の突然の死によって井伊氏は存亡の危機に立たされた。直親の一子虎松(二歳)はかろうじて新野左馬助の手によって匿われ、難を逃れたが、永禄七年(1564)にはその左馬助も引馬城の戦いで討死してしまう。虎松は一族奥山六左衛門に伴われて三河鳳来寺に身を移した。
しかし、当主不在の異常事態は避けなければ井伊氏は滅びてしまう。せめて虎松が成人するまでは何とかしなければならないのだ。そこで龍潭寺の南渓和尚は先代直盛の一人娘次郎法師に井伊の家督を継がせたのである。「女地頭」の誕生である。
次郎法師は直虎と名乗り、井伊氏当主として領内統治に尽くした。この時、井伊城本丸に居所を移していたに違いない。ただし井伊氏当主の歴代には数えられていない。あくで直虎は中継ぎに徹していたのである。
永禄十一年(1568)、家老小野但馬守はついに次郎法師直虎から井伊領を押領してしまった。「女地頭など誰が認めるものか」といったところであろうか。しかしこれは長くは続かなかった。この年の暮十二月、後ろ盾の今川氏真が武田信玄に攻められて駿府を逃げ出したのである。時を同じくして三河から陣座峠を越えて徳川家康が遠江に進攻、井伊谷に迫ったのである。
この時、次郎法師の名は歴史に登場しないが、家康は井伊家の内情を知っていたのであろう。小野但馬守とその一党を捕縛している。徳川勢は井伊谷を平定すると疾風の進撃で掛川城攻めに向かった。
永禄十二年(1569)、家康は井伊谷蟹淵で小野但馬守とその子二人を獄門磔に処した。二度に渡り井伊家を悩ませた小野一族は家康の手によって滅ぼされたのである。
けなげに井伊家を守り続けた次郎法師の生きざまに家康は感動したにちがいない。後に十五歳に成長した虎松は次郎法師の仕立てた小袖を着て浜松城の家康に出仕した。家康は万千代の名を授け、井伊領三百石を与えた。天正三年(1575)のことである。その後戦功を重ね二万石にまで加増された。
天正十年(1582)、直親の一子虎松こと万千代の成長を見届けた次郎法師は静かにこの世を去った。そして万千代は元服して直政を名乗った。直政はその後も家康のもとで獅子奮迅の活躍を見せ、徳川四天王に数えられるまでになる。
その後の井伊氏は近江彦根三十万石の大名として代を重ねて明治に至った。
井伊城は天正十八年(1590)に直政が家康の関東移封にしたがって上州箕輪に移ってからは廃されたものと思われる。
元和五年(1619)、井伊谷とその周辺を拝領した旗本近藤秀用が旧井伊城三ノ丸跡地に陣屋(井伊谷陣屋)を普請した。その後は井伊谷近藤氏五千四百五十石の陣屋として明治に至った。
|