舟ヶ谷城
(ふながやじょう)

御前崎市新野


▲ 西側から見た舟ヶ谷城址。新野新城(新野古城(八幡平城)に対して)とも呼ばれるこの城
は今川系新野氏の城跡とみられているが残念ながら史料に乏しく推測の域を出ていない。

武田の支城となった新野の城跡

牧之原台地の西端部近く、新野川東岸の台地支尾根上に舟ヶ谷城は築かれている。舟ヶ谷城は新野新城とも呼ばれ、東側の尾根続きに築かれている八幡平城を新野古城とし、いずれも新野氏に関連する城跡と見られている。当地には鎌倉時代の御家人新野氏が存在しており、戦国期には今川一族の新野氏がこの辺りを所領地としていた。しかし、両新野氏がこの二つの城を築いたという確実な史料はなく、今後の研究に待つほかないのが現状である。

舟ヶ谷城の周辺古地名を見ると城址南部に「殿の平(トンノビラ)」と呼ばれる所があり、城主屋敷の存在が推定されるが確証はない。今川系新野氏で幼少期の井伊直政を匿い、育てたことで郷土の誇りとなっている新野左馬助親矩の屋敷跡すら伝えられていないのである。

とはいえ、城跡は物言わずとも厳然とその姿を現在にまで残している。舟ヶ谷城は肝心の主郭部分を採土によって失われており、その全体像を明らかにすることはできないが、そこに至る細尾根上には数多くの堀切遺構が残されている。こうした残存遺構は周辺の八幡平城や天ヶ谷城と共通するものがあるとされ、天正二年(1574)から天正九年(1581)に至る高天神城をめぐる武田勢と徳川勢の抗争期に武田方によって改築・利用されたものであることが指摘されている。

現在、城址南端に登山口が設けられて登山路が設定されている。堀切跡などの看板も立てられており、見学者のために配慮がなされている。


▲城址南端部の登城口。(以下再訪時2024年)

▲登城口から150mくらい農道を進むと広場がある。城址への登り口である。

▲大河ドラマ「おんな城主直虎」の新野左馬助出演を記念して植樹された萩の木。

▲城址説明板。

▲登山開始。

▲ほとんどがこうした細尾根である。

▲最初の堀切遺構。

▲さらに細尾根が続く。

▲左馬武神社前から見た舟ヶ谷城の遠景。2007年当時と比べると茶畑が減っている。

▲古地名が記された案内板。

----備考---- 
訪問年月日 2007年6月16日
再訪年月日  2024年10月31日
 主要参考資料 「静岡県の城跡」他

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