(あまがやじょう)
御前崎市新野
▲ 城址東側からの遠望。最も奥に見える山が城山である。
忘れられた城
ここ新野地域には城史不明の城跡が点在している。八幡平城、舟ヶ谷城、釜原城そしてここ天ヶ谷城である。 この城跡に足を踏み入れると分かるが、堀切などに武田流の名残りが見受けられる。遠江における武田と徳川の抗争は高天神城をめぐる戦いであったと云っても過言ではない。城跡からは高天神城とその背後に横たわる小笠の山並みが一望できる。 元亀二年(1571)三月、駿河から大井川を渡って遠江に進攻した武田信玄は勝間田、相良(牧之原市)地域を制圧して塩買坂に陣を構えたが、この際にここ天ヶ谷城にも武田勢の一部が進駐したであろうことが察せられる。その際に地元の領主あるいは徳川方との間に戦闘が起きたかどうかはよく分からない。 その後、信玄は内藤昌豊に高天神城をひと攻めさせただけで北遠から信濃へ引き揚げた。この三年後、天正二年(1574)に高天神城は武田勝頼によって落とされた。高天神城は武田方の最前線拠点となったのである。武田方は高天神城を維持するための糧道の確保に力を入れた。当然のことである。八幡平城やここ天ヶ谷城に武田流の遺構が見られるのは、この糧道確保のための拠点として整備されたものなのであろう。 では、それ以前のこの城はどうだったのか。これまたよく分からないのが現状なのである。ただ、この城の西側の地が高橋と呼ばれており、この地の地頭として高橋左近将監という名が今川義元発給の文書の中に出ていることから、この城との関連があったのではないかと考えられている。それ以上のことは分からない。 この城跡の峰続きに竜源寺跡と呼ぶところがあり、こんなはなしが伝えられている。今川義忠が横地・勝間田を攻めたとき(文明八年/1476)高橋左近将監はその先導役をつとめた。しかし帰陣の途中塩買坂で横地・勝間田の残党に襲われ、将監は義忠とともに討死してしまった。将監の妻は夫の菩提を弔うために尼となって竜源寺を建てた。その場所を尼ヶ谷と呼んだ。その後この谷では後家が多く、尼ヶ谷の字を嫌って天が谷に改めたというのである。 遠江には史料が残されていないがゆえに城史不明の城跡、謎の古城跡と呼ばれる城跡が多く点在している。これらの城は言い換えれば歴史から忘れられた城といえようか。 |
▲ 城址からは高天神城方面が彼方に俯瞰できる。 |
▲ 主郭跡。地元では「天ヶ谷の城平(しろひら)」と呼ばれている。 |
▲ 武田流の名残りである大堀切。 |
▲ 新野側柏木登り口から城址に向かう途中にある竜源寺の跡地。 |
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画像の撮影時期*2007/08 |