(おおかわらじょう)
長野県下伊那郡大鹿村大河原
▲大河原城は土豪香坂氏の居城であった。南朝の皇子
宗良親王をお迎えした香坂氏は小土豪の身であったが、
三十余年にわたり親王と共に転戦、守護を全うした。
(写真・城跡の城址碑と説明板。)
南朝興隆の夢、空しく
興国四年(1343)、南朝の皇子、宗良親王が南信(南信濃)大河原城に入った。延元元年(1336)に後醍醐天皇が吉野朝(南朝)を開いて以来、宗良親王は天台座主から還俗して南朝興隆のために北朝足利方との戦いに東奔西走していた。伊勢一之瀬城から遠江三嶽城、そして越後、越中へとおよそ七年間、南朝勢力を糾合して転戦を繰り返し、この年に至り信濃の南朝方を結集すべく南信の山峡大河原の地を居所と定めたのである。山間の奥地であるが、遠江、諏訪、そして関東にも通ずることができる要衝の地でもあったからであろうか。この時、親王三十二歳であった。 |
▲大河原城主で宗良親王の守護を全うした香坂高宗の墓。 |
▲御所平。香坂高宗が宗良親王の安全のために、さらに山奥に仮御所を設けた場所である。 |
▲山また山の大鹿村。 | ▲大鹿村上蔵(わぞ)地区に大河原城跡がある。 |
▲福徳寺本堂。長野県最古の木造建築物として国の重文に指定されている。本堂近くには駐車スペースと観光案内板が立っている。 |
▲史跡案内板。 |
▲大河原城主香坂高宗の墓。大正14年(1925)、特旨をもって従四位が贈られた。 |
▲登城口は福徳寺本堂の先(東)の四辻を南に行くと小さな案内板が畑の方に立っている。畑の畔道を東へ行き、けもの除けのネットをくぐると、その先に白い説明板が見える。 |
▲城址碑の横に立つ説明板。 |
▲城址の南側は断崖となっている。川による浸食が激しいらしく城域の多くが消滅しているらしい。 |
▲大河原城址からさらに山奥へ6kmほど林道を行くと、宗良親王の仮御所が置かれたという御所平がある。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2015年8月14日 |
主要参考資料 | 「おおしか村ってこんな村」他 |