(おかじょう)
国指定史跡、百名城
大分県竹田市竹田
▲岡城は大友氏の支族志賀氏が南北朝期に築いた城で、戦国期に
かけて志賀氏の居城であった。文禄の役で主家大友氏が失脚する
と志賀氏も城を去り、中川氏が岡藩主として入部して明治に至った。
(写真・西中仕切跡から見た三の丸の石垣。)
島津の大軍を退けた天険の山城
治承四年(1180)、源頼朝の挙兵。これに呼応して九州に於ける反平家の旗をあげたのが豊後国緒方庄の武士緒方三郎惟栄(これよし)であった。惟栄は都落ちした平氏を大宰府から追い出すなどして活躍した。戦後、頼朝と義経が対立すると惟栄は義経に加担、豊後へ迎えようとした。この時に築かれた砦が岡城の前身となるものであったとされる。無論、伝承の域を出ない。ちなみに惟栄は船団を手配して摂津を義経らと共に船出したのであるが、暴風のために失敗してしまった。惟栄は捕らえられて上州沼田へ流罪となり、後に豊後へ戻ったとも途中で病死したとも伝えられている。 |
▲駐車場となっている総役所跡から大手登城口へ向かう。見上げると断崖絶壁、その上が西の丸である。 | ▲大手登城口前に建つ城址碑。 |
▲左側の坂道が大手登城口。坂道の右の石塁はカマボコ型石塁と呼ばれる石垣。 |
▲登城口の史跡碑。 |
▲苔むすカマボコ型石塁。 |
▲大手門跡。 |
▲大手門跡の石垣。 |
▲古大手門跡。藤堂高虎の指摘を受ける前の大手門跡。 |
▲大手門跡の石垣。 |
▲西の丸南面の石垣。 |
▲西の丸御殿跡。 |
▲西の丸東門跡。 |
▲桜馬場跡。 |
▲城代屋敷跡。 |
▲太鼓櫓跡。 |
▲三ノ丸からの展望。くじゅう連山。 |
▲本丸西北面の石垣。 |
▲二の丸にある空井戸。 |
▲本丸跡。 |
▲本丸跡に立つ説明板。 |
▲城跡地形図。南北に川が流れ、天然の堀の役目を果たしている |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2015年8月11日 |
主要参考資料 | 「豊後岡城物語」他 |