竹ヶ鼻城の創築は応仁年間(1467-69)に竹腰伊豆守尚隆によるとするのが通説のようになっているが、尚隆の父尚光が天文十七年(1548)に大垣城主であったことを考えると無理があるように思える。
次に城主として名が見えるのは長井豊後守利隆である。文明年間(1469-87)の後半のことである。そして明応五年(1496)の船田合戦で城田寺城に自刃した石丸丹波利光が近江から美濃に軍を進めるに際して竹ヶ鼻に屯したことが伝えられている。この時、利隆は岩倉城主織田寛広支援のために尾張に出陣中であったから、その留守を衝いて占拠したものであろうか。翌年、利隆は斎藤妙純利国の嗣子利良を補佐するために加納城に移り、竹ヶ鼻城は利隆の子隼人佐道利が城主となったと言われるが定かではないようだ。
竹ヶ鼻城が城としての体裁を確立するのは天正八年(1580)に不破源六広綱が城主となってからである。広綱は荒廃していた竹ヶ鼻城を拡大、改築して居城とし、城下町を整備したと言われている。そして父綱村のために本覚寺を復興して菩提寺とした。所領は三千六百貫(二万八千余石)であったとされている。
天正十二年(1584)、小牧・長久手合戦に際して不破源六は城中で評定を開いてどちらに付くか家中の意見を聞いたという。すると「信長公の恩義に報いるべし」の意見が多数を占め、織田信雄に味方することに決したと伝えられている。城兵は七百余人。
四月、長久手合戦で惨敗を喫した羽柴秀吉は徳川家康を誘い出すために翌五月に十万余騎の大軍を西へ移動させた。秀吉勢は六日、加賀野井城を一日で落とし、竹ヶ鼻城に迫った。ここで秀吉は一息に竹ヶ鼻城を攻め落とすことをせず、家康と織田信雄の動くのを待つために長期滞陣の態勢をとることにした。木曽川の支流足近川の増水を利用して高さ約12m、幅約26m、長さ約2.6kmの堤を築いて城下ごと囲み、水攻めとしたのである。五月十一日から六日ほどで築いたので一夜堤と呼ばれている。
足近川の堤が切られて堤内に水が流入すると町屋はたちまち冠水、水は城の二の丸まで入った。城内では筏を組んで対処したと言われている。源六は援軍要請の使者を幾度も走らせたようだが、援軍到来の報せは遂になく、六月十日に至って秀吉の和議を受け入れて開城のやむなきに至った。開城後、源六は信雄の長島城に退去、後日には加賀前田家に仕えることになる。
竹ヶ鼻城を攻略した秀吉は攻囲軍の大将格であった一柳伊豆守直末を城主とした。結局、秀吉と信雄の和議が成立したため、秀吉の目論んだ家康との決戦は起きることはなかった。
天正十三年(1585)九月、一柳直末は大垣城主に転じ、岐阜城主となった池田輝政の家老伊木清兵衛忠次が竹ヶ鼻城主となった。
天正十八年(1590)、池田輝政が三河吉田城に転じて森寺清衛門が城主となる。
文禄元年(1592)、岐阜城主織田秀信の家老杉浦五左衛門重勝が一万石で城主となる。そして慶長五年(1600)の関ケ原合戦を迎えることになる。
杉浦五左衛門は西軍に付いた秀信に従って東軍の襲来に備えて城を固めた。
八月十三日、東軍先鋒隊福島正則ら三万五千人が清州城に到着、二十一日には岐阜城攻略のために動き出した。
竹ヶ鼻城の杉浦五左衛門は織田秀信からの援軍梶川三十郎、花村半左衛門、石田三成からの援軍毛利掃部らと共に木曽川右岸に布陣して東軍に備えた。対岸に現れたのは福島正則、黒田長政、細川忠興ら一万六千の大軍であった。ところが、東軍勢は下流に移動して加賀野井から渡河したため、杉浦五左衛門ら西軍は竹ヶ鼻城に戻って籠城戦に備えたのである。
翌二十二日、東軍は攻城と共に降伏を勧告した。二の丸の毛利掃部は寝返って東軍勢を引き入れたために本丸の杉浦五左衛門は孤立してしまったが、降伏勧告を拒否して城に火を放って自刃して果てた。東軍は二十三日に岐阜城を攻略して二十四日には赤坂に集結を完了した。
焼亡した竹ヶ鼻城はその後再建されることはなく、廃城、消滅してその所在地すら分からなくなってしまった。現在では本丸と思われる場所に城址碑が建っているのみである。
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