この辺りは元々は保曽久美(ほそくみ)と呼ばれ、細汲、細首とも書かれた土地であった。参宮古道と三渡川の河口を押える海陸交通の要衝であったと言われる。
永禄十年(1567)、この要衝の地に城(細首城)を築いたのは南北朝以来の伊勢国司で南伊勢を支配する北畠具教であった。織田信長による伊勢進攻に備えるためであった。
永禄十二年(1569)、北畠具教は実弟で木造家を継いでいた具政が織田方に寝返ったため、木造城を包囲攻撃した。木造城は細首城の北北西約7kmで、北畠支配圏の最北端の位置にあった。しかし、城は容易に落ちず、八月になると織田信長の大軍が迫って来たために北畠勢は撤収して大河内城に籠った。この時、北畠側の最前線拠点となってしまった細首城は北畠家臣の日置大膳亮が城将となっていた。北畠の主力が大河内城に引き籠ってしまったため、日置大膳亮は城を焼き払って大河内城の主力に合流した。結局、大河内城の戦いは北畠具教が信長の次男(信雄)を北畠氏の後嗣として受け入れることで終わった。
信長の進攻によって自焼自落した小さな城跡が南伊勢を支配する近世城郭として蘇るのはそれから十一年後の天正八年(1580)のことである。天正三年(1575)に北畠氏を継いで十代当主となった信雄は田丸城に三層の天守を築いて居城としていた。ところが天正八年に放火によって田丸城の主要部が焼け落ちてしまったのである。そこで、信雄は田丸城の再建を断念して細首の地に新城の築城を決したのである。
信雄は新城に五層の天守を築き、松ヶ島城と称した。父信長の安土城とともに織田一門の勢威を示す豪華絢爛な城郭に仕上げたようだ。現在も城跡からは金箔瓦が出土すると言われている。
天正十年(1582)、本能寺の変後、信雄は清州城に移った。松ヶ島城には家老津川玄蕃允義冬が城主となって入った。
天正十二年(1584)三月、信雄と羽柴秀吉の対立が決定的となり、秀吉の流言に乗せられた信雄は津川義冬ら家老三人を謀殺してしまった。松ヶ島城には信雄の命で滝川雄利が三千の兵とともに入城した。
出陣を決した秀吉は伊勢方面へ羽柴秀長を総大将とする二万の大軍を向けた。従うのは筒井順慶、織田信包、田丸具直、藤堂高虎、蒲生氏郷、九鬼嘉隆らの軍勢であった。蒲生氏郷自身は秀吉本隊に従軍したため、家老の蒲生源左衛門郷成が別隊を率いて秀長隊に加わっていた。
松ヶ島城の滝川雄利、日置大膳亮らの抵抗は激しく、攻防は四十日に及んだ末に和議開城となった。
六月、小牧対陣中の秀吉は蒲生氏郷に松ヶ島城主を命じ、近江日野六万石(日野城)から南伊勢十二万石へと取り立てた。
松ヶ島に入部した氏郷は抵抗を続ける信雄方の木造城を攻略して南伊勢の平定を完了、城下の整備に取り掛かった。旧領日野の商人達を移住させ、活気溢れる城下町にしたかったのだ。しかし、それには城地が狭く海に近いためにこれ以上の発展を望めそうにも無かったのである。
そこで氏郷が目に付けたのが南約3.5kmの独立丘である四五百森(よいほのもり)であった。氏郷はそこに新城を築き、城下町の建設に取り掛かったのである。その城は松坂城と呼ばれた。当然、松ヶ島城の部材も新城の建築に充てられ、城下の町人、社寺などすべてのものが新たな城下に強制的に移された。松ヶ島は瞬時にしてもとの一漁村に戻ってしまったと言われるのはこのためである。
現在は周辺すべて田畑、宅地と化し、天守山と呼ばれる小丘が畑地の中に残るばかりである。
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