本多忠勝屋敷
(ほんだただかつやしき)

浜松市中央区田町


▲本多忠勝屋敷は徳川家康が浜松城を築いた当時に屋敷地としたもの
と思われ、分器稲荷神社はその一部、または東側にあったとされる。
(写真・遠江分器稲荷神社)

四天王本多平八郎の屋敷地

浜松城の東側、遠州鉄道の遠州病院駅の南西150mほどの所に遠江分器稲荷神社がある。この神社の境内はかつて本多平八郎忠勝の屋敷の一部であったとの説があり(「浜松の史跡」)、江戸期に編纂された「曳駒拾遺」には「本多平八郎忠勝は分器稲荷社の西の家也と云へり」とある(標柱の説明)。いずれにしても、この辺に本多忠勝の屋敷があったのは確かであろう。

分器稲荷社の創建は永禄十一年(1568)二月と由緒にある。この年の暮れ、徳川家康は三河から遠江へ駒を進めて引馬城(浜松城の前身)を落とし、翌年には掛川城を落として今川氏真を追放した。

家康は遠江計略の拠点として浜松城を築き、城下町を整備した。分器稲荷社の周辺には武家屋敷が置かれ、本多忠勝や鳥居元忠、高力清長、大久保忠佐、大久保忠教らが屋敷を構えたと言われる。

 皆、血気盛んな家康股肱の家臣らで、ことに本多忠勝は徳川四天王に数えられた猛者であった。元亀三年(1572)の一言坂の戦いでは殿軍となって蜻蛉切りの槍を振り回し、武田軍を相手に大活躍したことで知られる。武田信玄は忠勝の活躍を聞いて「小身の家康には過ぎたるものよ」と称賛したという。

現在では神社周辺も市街地化が進んで武家屋敷跡の片鱗もうかがうことはできない。ただ、神社前の通りに屋敷跡の史跡標柱が立つのみである。


▲分器稲荷神社。歴代将軍家より崇敬された。

▲由緒書き。

▲神社前の通りを「稲荷通り」と呼び、本多忠勝屋敷推定地の標柱が立っている。

▲標柱の説明書き。

----備考---- 
訪問年月日 2024年9月24日
 主要参考資料 「浜松の史跡」他

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