片瀬城
(かたせじょう)

周智郡森町一宮


▲ 城址は新東名高速道路によって寸断される。

一宮防御の
       城砦網

 駿遠の太守今川家も義元亡き後、氏真の代となってからは衰退はなはだしく、永禄年間(1558〜1569)の後半には、ことに遠江の国人層の多くが今川離反の動きをみせていた。これは甲斐の武田氏と三河の徳川氏による調略合戦が活発化していたことにもよる。

 さて一宮荘の国人武藤氏定の場合である。氏定はいち早く今川を見限り、武田に属した。武田からどのような誘いや支援を受けたのかは知る由もないが、氏定は一宮防衛のために領内の各所に多くの城砦を築いて徳川勢の来襲に備えたのであった。その数、十二ヵ所に及んでいる。

 列記してみよう。武藤氏本来の居城であった草ヶ谷城、そしてその周囲を取り巻くようにして森之城、粟倉城、松ヶ谷砦、宇藤の谷砦、丸山城がある。さらに一宮の田園を囲むように真田城、十王山砦、西の谷砦、薬師山砦、元思案坊砦、そしてここ片瀬城である。

 永禄十一年(1568)十二月、武田信玄は駿河攻略に取りかかった。

 駿河は瞬く間に武田のものとなり、今川氏真は遠江掛川城に逃げ込んだ。

 武田の駿河進攻を知った家康もすかさず遠江への進攻を開始し、掛川城を囲んで攻めたてた。周辺諸城の平定も合わせて進められ、いよいよ遠江の国人にとって一族の浮沈を賭けた波乱の時代へ突入したと云ってよい。

 氏定は、武田勢の来援を心待ちにしていたが、それより先に徳川勢による遠江進攻が素早く進んだため一旦、一宮を退去して甲州へ逃れた。

 それから三年、元亀三年(1572)に氏定は武田の大軍に属して故郷一宮に戻った。この時に片瀬城は武田勢によって修築され、軍兵の駐屯地となったとの見解がある。遺構の研究から武田系山城の構造を有するとされており、一門か重臣以上の人物が布陣したと考えられている。
 
 その後、信玄は三方原において家康を叩き伏せ、三河へ向った。この時、氏定は武田の庇護下で先祖伝来の故郷を守り続けることができると安堵したことであろう。

 しかし、それも束の間、翌年四月に信玄が死去し、武田の動きが止まってしまった。六月、家康が一宮に兵を進めてきた。武田の後詰あっての城砦網である。氏定は故郷を再び捨てざるを得なくなって再び甲州へ遁れた。

 その後、氏定は武田勝頼の命によって高天神城に入り、天正九年(1581)三月、徳川勢との戦闘で討死した。故郷一宮の土を再び踏むこともなく。

▲登城口となる八面神社。

▲神社の北側山稜が城址である。その手前は墓地となっている。

▲神社の鳥居脇に立つ説明板。

▲墓地のある高台から南方を俯瞰する。二俣街道を扼する位置にあり、舌状台地の形状がよくわかる。

▲新東名の北側丘陵。この上に主郭がある。

▲新東名の南側丘陵。

----備考---- 
訪問年月日 2006年1月28日
再訪年月日 2024年9月5日
 主要参考資料 「静岡県の城跡」他

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