(あわぐらじょう)
周智郡森町円田
▲粟倉城は一宮の領主で武田方についた武藤氏が敵対
する徳川勢に対する備えとして築かれたと言われる。
(写真・東側登山口から見た城跡)
一宮城砦網の物見台
周智郡森町を流れる太田川西岸の円田地区の丘陵上に粟倉城は築かれている。鎌倉時代から草ケ谷を本拠地とし、一宮荘代官職であった武藤氏の勢力範囲にあった。 戦国期の永禄十一年(1568)頃、武藤刑部氏定は駿河を攻略して遠江へ進出しようとする武田方に属した。この時、武藤氏定は領内に徳川勢の侵入に備えて十二ヶ所以上の城砦網を築いたとされている。しかし武藤氏だけでこれだけの城砦網を短期間で築くのは無理なはずで武田の協力なしでは考えられない。 永禄十一年(1568)当時の徳川勢の森地方への進出は素早かったため、武藤氏定は一宮荘を捨てて甲斐へ逃れている。再び一宮の故地に戻ったのは元亀三年(1572)のことである。武田信玄による遠江侵攻がはじまり、二俣城攻略の為に信玄は天竜川東岸の合代島(亀井戸城か)に二ヵ月近く滞陣している。武藤氏が領内に十二ヶ所以上の城砦網(真田城、片瀬城など)を整備したのはこの時であったのではないだろうか。武田勢は総勢二万八千ほどが二俣城攻略と合代島周辺に集結しているのである。 粟倉城もこの時に整備されたものと見られており、城域である丘陵の東端には腰曲輪を備えた櫓台と思われる曲輪跡が残存している。ここからは東側の太田川に至る平野部と同川東岸の丘陵部(飯田城方面)までが見渡すことができ、物見台としては最適の位置にあるといえる。 信玄は二俣城攻略の後、三方ヶ原合戦で徳川家康を敗走させ、三河野田城を攻め落とした。しかし信玄は三河を移動中に病没してしまい、武田勢は反転して甲斐へ戻ってしまった。武藤氏定も一宮荘を徳川勢に追われて甲斐へ逃れた。その後、氏定は高天神城に入り、天正九年(1581)の落城と共に討死した。 |
▲登山口から見上げる城跡。山道の先に墓塔が見える。 |
▲古そうな墓塔群。 |
▲墓地の間を抜けて最頂部へ向かうと腰曲輪が取り巻く円丘がある。物見台的な円形の曲輪である。 |
▲腰曲輪。 |
▲腰曲輪の下は墓地となっている。 |
▲墓地から眺めた東側。前方の丘陵地は太田川東岸の飯田方面である。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2024年11月28日 |
主要参考資料 | 「静岡県の城跡」他 |