(くさがやじょう)
周智郡森町草ケ谷
▲草ヶ谷城は鎌倉期より一宮荘の代官となった武藤氏の本拠地となった居館城である。
戦国期に武藤氏定が居館の地を寄進、香勝寺を建立して現在に至っている。
(写真・香勝寺の山門)
一宮代官武藤氏の本拠地
新東名高速道路の遠州森町パーキングエリアの東約600m、森町草ケ谷の地に百万本の桔梗(ききょう)が咲き誇ることで有名な禅刹香勝寺がある。香勝寺は一宮の国人である武藤刑部氏定が天文十四年(1545)にそれまでの屋敷地を寄進して寺を建立したことにはじまる。 この武藤氏がここ草ケ谷の地を本拠地とするようになったのは鎌倉時代にまでさかのぼる。源頼朝のもとで源氏軍の一翼を担った甲斐源氏の安田義定の家老武藤五郎頼高を祖とする。治承四年(1180)、義定が遠江守に任ぜられたことから家老の武藤五郎は一宮領の代官として当地草ヶ谷に屋敷を構えた。以後、戦国期に至る約三百六十年、およそ十三代が当地に居住したと寺伝はいう。武藤五郎は主君安田義定に殉死して果てるが、子孫は当地にて代々続いたことになる。 室町時代の15世紀、遠江守護は斯波氏の時代であった。一宮荘代官職も斯波氏の小守護代大谷豊前入道玄本がつとめていたようであるが、永享四年(1432)に幕府は武藤与二郎用定に代官職を安堵した。この後、武藤氏は幕府奉公衆としてその名を残している。 武藤用定から何代目か分からないが最後の当主となる武藤刑部氏定の時代となる。氏定は先に述べたように先祖代々の屋敷地(草ヶ谷城)に香勝寺を建て、その南200mほどに屋敷地を移している。そこは現在では住宅地となっているが、土塁の一部が今でも残存している。 氏定は当時三河にまでその武威を広げていた今川義元に従っていた。しかし永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで義元が討死してから後、永禄十一年(1568)頃になると遠江の国人衆は今川を見限り、徳川に付くか武田に付くかで乱れた。この時、氏定は迷うことなく武田方に付いた。 しかし、徳川勢の森地方への進出は素早く、武藤氏定は甲州へ逃れて時節を待つことにした。元亀三年(1572)、武田信玄は大軍を率いて遠江へ駒を進めた。時節到来、氏定は武田勢とともに故郷の地に戻った。この時に真田城や片瀬城など一宮地域に多くの城砦が築かれたとみられている。信玄は二俣城を落とすと三方ヶ原に徳川家康を破り、三河へ進んだ。 ところが、三河野田城を落として進軍の途次、信玄が病没してしまった。ただちに徳川勢の反撃がはじまり、森地方は再び徳川方の支配下に置かれた。武藤氏定は無念にも再び甲州へと逃れた。 天正二年(1574)、武田勝頼は高天神城を落とした。その後、武藤氏定は勝頼の命によってか高天神城に入って城の防備についた。そして天正九年(1581)三月、兵糧の尽きた城内から他の城兵らとともに徳川勢に向かって打って出、壮絶な討死を果たした。故郷一宮の地を踏むこともなく。 ちなみに武藤氏定の子孫武藤孫左衛門は掛川亀の甲村(掛川駅南)に土着して帰農、子孫連綿としているとのことである。 |
▲草ヶ谷城跡地に建立された香勝寺山門。 |
▲山門前の説明板。 |
▲香勝寺本堂。 |
▲香勝寺の遠景。背後の裏山も城域と考えられるが、遺構はなさそうである。 |
▲武藤氏定が香勝寺を建立した後にその南側に居館を移したが、その際の遺構として土塁が残っている。西側から見た土塁遺構。 |
▲同じく東側から見た土塁遺構。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2024年9月5日 |
主要参考資料 | 「静岡県の城跡」他 |