左馬武神社
(さまたけじんじゃ)

御前崎市新野


▲左馬武神社は戦国時代の今川支族である新野左馬助親矩を祀っている。
(写真・神社のある丘)

郷土の誇り新野左馬助

 新野氏は今川氏の支流とされており、戦国期には井伊氏(井伊谷城主・浜松市北区井伊谷町)と姻戚関係となってその繋がりは深いものとなっていた。永禄三年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた。この時に井伊家当主直盛もまた討死したのであるが、その妻(祐椿尼)は新野左馬助親矩の妹であったとされる。そしてまた左馬助の妻は井伊家重臣奥山氏の娘であった。しかも左馬助自身も井伊谷に居を構えていたのである。それほど井伊氏との関係は深いものとなっていた。

 直盛討死後、子が無かったために従兄弟の直親が井伊家を継いだのであるが、家臣の讒言によって今川氏真によって討たれてしまった。

 この時、氏真は怒って井伊討伐の軍勢を差し向けようとしたが、左馬助は一身を賭して氏真を諌めたと云われている。しかし、氏真は軍を催すことはやめたが直親を許そうとはしなかった。誤解を解くために駿府へ向かう直親をその途中掛川において朝比奈氏に襲わせて討ち取ってしまったのである。氏真はさらに井伊氏の所領までも取り上げ、井伊家そのものを根絶やしにしようと追手を差し向けた。左馬助は、真偽を確かめようともせず讒言に易々と乗せられてしまう氏真には失望したことであろう。左馬助は直親の一子寅松(万千代とも云う、二歳・後の直政)を密かに匿った。永禄五年のこととされている。

 永禄七年(1564)引馬城(浜松市中区)の飯尾連竜が今川を見限り、三河の徳川家康に内通するという一件が発覚した。今川氏真は飯尾氏を滅ぼそうと「引馬城を攻めよ」との下知を新野左馬助のもとに飛ばした。

 引馬城攻めの大将となった左馬助は甲冑に身を固めると妻を呼び、諭した。
「木の根を食んででも寅松を守り育てるのじゃ。井伊家再興のために」

 引馬城の飯尾勢の抵抗は頑強で、左馬助は戦死してしまう。結果、今川勢は城を落とせずに兵を退くに至る。左馬助は今川の血を引く者として、氏真の短慮を死をもって諌めようとしたのであろうか。

 しかし、左馬助の思いは氏真に通じるはずもなかった。この翌年、氏真は和睦する旨を連竜に伝えて駿府に呼び出し、殺してしまったのである。

 一方、左馬助の妻は亡き夫の思いを秘めて寅松を育て続けた。

 天正三年(1575)、十五歳になった寅松こと直政は浜松城の家康のもとに出仕して井伊家を再興することができた。徳川四天王のひとりに数えられるほどに活躍した直政はやがて彦根三十万石の大名となったが、幼き頃に受けた左馬助夫妻の恩は終生忘れることはなかったはずである。

▲左馬武神社入口に建つ「新野左馬助公御墓所」の碑。

▲ 左馬武神社への登り口。

▲もう少し。

▲左馬武神社。

▲左馬武神社の向って右側の五輪塔。新野左馬助の墓と伝わる。

▲神社横に建つ由来碑と石碑。

▲神社の東には居城跡と伝わる舟ヶ谷城の丘陵が見渡せる。

▲神社近くの交差点に立つ「新野左馬助公の里」の看板。

----備考---- 
訪問年月日 2024年10月31日
 主要参考資料 現地案内板・他

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