作左曲輪
(さくざぐるわ)

浜松市中央区松城町


▲作左曲輪は本多重次が浜松城の西北に築いた曲輪で、三方原合戦当時
ここに兵糧を貯えていたことで家康は喜び屋敷を置くことを許したという。
(写真・浜松城公園の作左の森入口)

鬼作左の曲輪

浜松城天守の西北一帯は浜松城公園のなかでも「作左の森」と呼ばれる散策路の整備された樹林地帯がある。かつて「作左曲輪」と呼ばれた地域の一部であり、隣接する浜松中部学園もこの曲輪跡に含まれる。

作左曲輪はその名が示すように徳川家康の重臣本多作左衛門重次が浜松城の西北の守りとして構築、そこに屋敷を置いたことがその由来である。

本多重次は家康の祖父清康に七歳の時に出仕、次代の広忠そして家康に仕え続けた。享禄二年(1529)の生まれであるから家康より十三歳ほど年上になる。剛毅で怒りやすいことから「鬼作左」と綽名された。それでも若き家康にとっては頼りがいのある家臣であったといえる。三河を平定する際には戦陣だけではなく三河三奉行の一人として行政面にも力を発揮した。

徳川家康は永禄十二年(1569)から浜松城の築城を開始、翌年には居城を岡崎城から浜松城へと移した。元亀三年(1572)、武田信玄は二俣城を落として三方ヶ原へと大軍を進めた。家康は城を出て信玄に戦いを挑んだが大敗を喫してしまう。

この三方原合戦で本多重次は殿軍をつとめて家康の撤退を援護した。この撤退戦では家康の多くの家臣が家康を逃すために犠牲になったが、重次はなんとか浜松城へ戻っている。家康は重次を呼び「この先、籠城戦となろうが、兵糧はいかに」と米の備蓄を心配した。重次は「ご心配なく、米は十分に貯えてござりまする」とこたえたという。非常に喜んだ家康はそこに屋敷を置くことを許した。

天正七年(1579)、重次は屋敷地に城柵を巡らして城の搦手を守る曲輪とした。この曲輪が作左曲輪と呼ばれたのである。幕末の安政元年(1854)の浜松城絵図にも柵で囲われた作左曲輪の存在が描かれており、戦国期から維持され続けていたことがわかる。

現在、曲輪としての遺構は見られない。浜松城公園の南側の入口に交番があり、その前に「徳川家康家臣本多重次屋敷推定地」の標柱が立っている。そこから数十メートル入ったところに「浜松城作左曲輪」の石柱と説明板が立っているのみである。公園内の作左の森はかつて動物園となっていた所なので地形は当然ながら改変されている。


▲本丸の西北に作左曲輪がある。

▲浜松城公園入口の交番前に立つ史跡標柱。

▲作左曲輪の石柱。

▲作左曲輪の説明板。

▲作左の森の散策路。

▲作左の森の散策路。

----備考---- 
訪問年月日 2024年9月24日
 主要参考資料 「浜松の史跡」他

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