川上城
(かわかみじょう)

     菊川市川上     


▲川上城はその由来が不明な城跡であるが、付近の発掘調査から中世
居館の存在が確認されており地域支配者の詰城であったかもしれない。
(写真・城跡に建立された川上八幡神宮)

八幡宮となった城跡

永禄十二年(1569)正月、前年暮れに遠江入りした徳川家康は今川氏真の籠る掛川城を攻めていた。この戦闘の最中に家康は遠江諸地域の土豪に所領安堵状を出して取り込みを進めている。掛川城攻めの本陣地とすべく家康は天王山(掛川古城)を正月十二日に奪取した。

この日、家康は城東郡の大村弥十郎に宛て河上之内を安堵している。この大村氏はそれまでは今川氏に仕えていたとされる。このことから川上(河上)地域は大村氏の知行地であったようだが川上城との関係は分からない。

この前年(1568)冬に駿河を制した武田信玄は元亀二年(1571)春、大軍を率いて遠江に侵入した。小山、相良方面を制圧しつつ信玄は塩買坂に陣取った。

川上城はこの信玄の塩買坂の陣場から西へ1.5kmほどの位置にある。陣場からは尾根続きで平野部への出口でもある。この城に武田勢の先鋒隊が駐屯してもおかしくないと思われる。天正二年(1574)にも武田勝頼が塩買坂に陣して、その後高天神城を攻め落としている。東遠州の土豪の多くは武田氏に従った。

それにしても川上城の由来を伝えるものはなく、川上八幡宮の境内地となっている裏山に本城曲輪と物見曲輪の跡を遺すのみである。八幡宮の峰続きの北側にも城山とか城山下といった地名が残されており城域は広がりを見せている。

この八幡宮が勧請されたのは天文年間(1532-1554)とされているが神社が建立されるのは江戸時代の享保八年(1723)のことで八幡宮と飛龍権現、山王権現を合祀して現在の川上八幡宮となったという。


▲川上八幡宮の由来。

▲本殿。

▲本殿浦から急な石段を登ったところにある奥宮。ここが「静岡県の城跡(静岡古城研究会)」では本城曲輪となっている。

▲奥宮の背後は一段高くなっており、物見曲輪としている。



----備考---- 
訪問年月日 2024年4月11日 
 主要参考資料 「静岡県の城跡」

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