可睡斎
(かすいさい)

袋井市久野


▲可睡斎は徳川家康が仙麟等膳和尚を招いて復興させた
禅寺で、後に三・遠・駿・豆の曹洞宗寺院を管轄下においた。
(写真・可睡斎総門と石柱碑)

和尚、睡る可し

東名高速道路の袋井ICから北東へ約2kmのところに禅刹可睡斎がある。可睡斎の総門前には「徳川家康公深きゆかりの禅寺」と刻まれた立派な石柱碑が建っている。歴史好きにとっては血が騒ぐ場所のひとつである。

可睡斎の歴史は応永年間(1394-1428)の初期、曹洞宗開祖の道元の八代の法孫如仲天ァ(じょちゅうてんぎん)が久野の地に草庵を結んだのがはじまりとされる。その後、如仲天ァは飯田城主(森町)山内対馬守に請われて崇信寺を創建、さらにその後に森町橘に大洞院を開いている。

その後の永正年間(1504-22)、晩年の如仲に仕えた太路一遵(たいろいちじゅん)が師の足跡を求めて五畿七道を遍歴、遠州久野城下に錫を置き、毘沙門天の奇瑞(吉兆)を得たという。「この地こそ師の草庵跡」と確信した一遵は久野城主久野宗隆を開基として東陽軒を建立した。この東陽軒が可睡斎の前身なのである。

寺名が可睡斎と改められた経緯がおもしろい。可睡斎発行の「可睡斎物語」には寺伝資料のひとつである「可睡斎御由緒口訣室中秘録之分」による寺名の由来が分かりやすく記されている。要約すると以下のようなはなしである。

元亀の頃(1570-73)、忙中閑ありとて浜松城の徳川家康は家臣に仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚を探して連れて来るように命じた。篠島(愛知県知多郡南知多町)の妙見斎の住職をしていた等膳和尚は夜を日に継いで浜松城にやってきた。家康は駿府の人質時代に等膳のはからいで無事三河へ帰ることができたことを感謝し、思い出話が尽きずに長い時間が過ぎてしまった。疲れていた等膳和尚は昔の親しみから気が緩み、居眠りをしてしまった。家康は家臣らに「和尚の居眠りは無礼にあらず。和尚の我を見ること愛児の如し。ゆえに安心して睡る。我、その親密の情を喜ぶ。和尚睡る可し」と諭した。後日、再び浜松城に参上した等膳和尚は家康から「久野の東陽軒という零落した寺があり、いま普請中である。名を改め、可睡斎と号し、和尚に住職を申し付ける」と命ぜられたのであった。

「可睡斎物語」では篠島の等膳を呼び出したのを前後の情勢から元亀二年(1571)のこととしている。また、人質となっていた竹千代(家康)を等膳が駿府から連れ出し、篠島に匿った後に岡崎城へ戻したという話は竹千代の父広忠が幼い頃に岡崎の内紛から逃れて篠島の妙見斎に身を寄せたことがあり、その事と混交されているとの見方を示している。この時に妙見斎で修行中であった十六歳の等膳が広忠の面倒を見たとされている。

いずれにしても篠島の等膳と松平家との関係は家康以前から強い絆で結ばれていたことは確かであろう。

天正七年(1579)、家康は織田信長の命により正妻築山御前と嫡男信康を自刃させた。武田に通じているとの理由で信長からの強要であった。家康にとっては痛恨の出来事であったが仕方の無いことであった。ところが憤死した築山御前の亡霊が寝所に現れて困った家康は等膳に怨霊調伏の祈祷を頼み、鎮めたことが寺伝に伝えられている。

天正十年(1582)、織田信長と共に武田勝頼を滅ぼした家康は三河、遠江、駿河、甲斐、南信濃五カ国の大名となった。翌十一年(1583)、家康は等膳を三河、遠江、駿河、伊豆四ヵ国の僧録に任じた。

僧録は域内の曹洞宗寺院を管轄して人事、寺格の昇進、裁判などの決裁を下すのが任務である。等膳は恐れ多いとして一旦は断ったものの家康の強い意向を汲んで、上意を受けたことになっている。

同時に家康は可睡斎を僧録に相応しくするために本寺である一雲斎(磐田市下野部)に安置されていた初代如仲以来の世代牌を可睡斎に移させ、代償として多大な寄付を与え、等膳の隠居寺とした。こうして家康によって可睡斎と等膳は大きな特権を与えられた。

天正十八年(1590)、家康は関東六カ国に国替えとなり江戸へ移った。この年、等膳は示寂した。その後も家康、歴代将軍及び徳川幕府との関係は続いた。

現在でも遠州三山(法多山尊永寺、医王山油山寺)のひとつとして萬松山可睡斎を訪れる人は多い。


▲山門。

▲本堂。

▲萬松閣。堂内拝観の受付入口である。

▲徳川家御霊屋(おたまや)。

▲竹千代と若き日の等膳和尚(右)と浜松城主となった家康と居眠りする等膳和尚(左)が描かれた額。

▲これも家康と居眠りする等膳和尚。

▲掛川藩主井伊直好の五輪塔。

▲袋井祭りの屋台に飾られた徳川家康と本多平八郎。

----備考---- 
訪問年月日 2024年10月12日
 主要参考資料 「可睡斎物語」他

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