金原明善生家
(きんぱらめいぜんせいか)

浜松市中央区安間町


▲金原明善生家は江戸後期の名主金原家の屋敷で、天保3年(1832)に明善がここで誕生した。
現状の屋敷は老朽化のために平成23年(2011)に改修され、資料・遺品などが展示されている。
(写真・旧東海道に面して建つ生家)

わが身は無一文となっても

 天竜川水系のひとつ安間川が国道1号線と交わる東側の市街が安間町である。安間町内を東西に過ぎる県道314号線は旧東海道であり、その街道沿いに金原明善の生家がある。

金原氏の祖は鎌倉時代にまでさかのぼる。もとは下総国の武士であったのが鎌倉幕府の命を受けて遠江国蒲の庄に移ったのがはじまりで、金原法橋治時といった。法橋は日蓮上人の門下であったことから当地に妙恩寺(中央区天龍川町)を建立してその開基となった。その分家の八代目が金原明善だという。

明善の誕生は天保三年(1832)、幼名は弥一郎である。そのころの金原家は安間村など十三ヵ村七千石の旗本松平筑後守正孝の代官であると同時に五百石の名主を務めていた。父は久右衛門軌忠(のりただ)で両替商や造り酒屋を営み、家運は繁栄していた。十四歳のとき明善は重病にかかり寝たり起きたりを繰り返した。

病が回復した嘉永三年(1850)、現在の中野町の天竜川の堤が決壊して安間村も濁流に襲われた。天竜川の洪水は万延元年(1860)、文久二年(1862)と続き、多くの住民が被害を被った。

安政二年(1855)、結婚した明善は安政四年(1857)に父久右衛門から名主役を譲られる。明善の治水への思いは揺るがぬものとなり、天竜川流域百ヵ村の連名を集めて堤防修理の嘆願書を藩へ提出した。しかし、天下は大政奉還そして王政復古の大号令が発せられて幕藩体制が崩壊しつつあった。

そこで明善は京都へ出向き、新政府に治水計画書をだして堤防の修理を願い出、天竜川堤防御用係を拝命した。慶応四年(1868)のことで、この年またもや天竜川が氾濫している。

九月に改元されて明治となった。新政府では東京への天皇の行幸が計画されており、天竜川渡河のための堤防補修のために会計官権判事岡本健三郎、営繕司高石幸治を浜松へ派遣した。岡本は坂本龍馬とともに行動したことで知られ、土木の知識があったようだ。この復旧工事は旧幕臣からの調達金や寺院などの献金または借上金で賄われ、明善も御用係として八百両(約6,400万円)を寄付した。工事完了後、明善の発案で天皇行幸のための舟橋が天竜川に架けられた。こうした功績により明善に名字帯刀が許された。明善三十七歳のときである。

以後、明善の天竜川治水工事の情熱は揺らぐことなく続いた。明治五年(1872)、浜松県からは天竜川御普請専務に任ぜられ、鹿島から分流して浜名湖へ通す計画や鹿島から河口までを真っすぐに拡幅する計画がたてられた。しかし、住民らの理解が得られずに頓挫している。特に拡幅計画による東支川締切計画では掛塚湊が使えなくなるということで住民らによる金原家焼き討ち未遂という事件が起きてしまっていた。いずれにせよ工事進行には莫大な費用がかかり国の許可も下りなかったことも頓挫の原因であった。

明治七年(1874)、明善は天竜川通堤防会社を設立した。翌年、この会社は「治河協力社」と名前を変えた。賛同者による出資によって治水工事を進めるというものであった。さらに明善は内務省のオランダ人土木技師リンドウに河川調査や技術指導を仰ぎ、鹿島(天竜区)に量水標を設置した。また、急激な増水対策として上流における植林事業の重要性をリンドウから教えられたという。

明治十年(1877)、西南戦争の勃発により治河協力社への支援金が止まった。しかし明善の天竜川治水の決意は揺るぐことはなかった。「こうなれば金原家の全財産(約六万円/現在の約十二億円)を新政府に差し出し、代わりに国から補助金の承諾を得る。そのために東京へ行く」と明善は内務省の大久保利通に直接面会を求めた。わが身は無一文になっても住民の為に治水工事を成し遂げたい。その熱意に大久保利通は心を動かされ、十年間毎年二万三千円(現在の約四億六千万円)の工事費用を支給することを約した。そして明善の資産は全額が治河協力社に寄付された。

明治十一年(1878)、明善は水利学校を創って技師の養成にも注力、後にフランスへ治水技術の習得のために学生を留学させている。この年の十一月、明善宅へ明治天皇が北陸東海御巡幸の際に立ち寄ることになった。安間村をあげて奉迎の準備を進め、治河協力社の小さな社屋に明治天皇と随行の岩倉具視右大臣をお迎えした。

治河協力社の工事進行は順調に進み、余剰金が出るようになった。このことがそれまで出資を拒んでいた者が利益が出ると知るや集まってきた。明善にとっての会社設立は利益のためではなく世のため人のために役立つことが目的であったのだ。明治十八年(1885)、明善は悩んだ末に会社を解散して治水工事は国の直轄工事として引き継いでもらうことにした。水利学校の卒業生やフランス留学帰りの技師は引き続き治水工事に携わった。明善から引き継がれた工事は明治三十二年(1899)に終了したが、その後も公共事業として続けられて最後の工事が終了したのは昭和四十二年(1967)のことであった。治河協力社設立から治水工事は実に九十数年に渡って続いたことになる。

会社解散の後、明善はリンドウの教えの通りに上流域の植林事業に生涯を捧げて行く。植林によって雨水は地下に浸み込み、直接川に流れ込むことが減り、急な増水を緩和することになるのである。

大正十二年(1923)一月、明善は九十二歳で波乱の生涯を閉じた。まさに天竜川治水の信念を貫いた大いなる生涯であったといえる。


▲生家は明善記念館として公開されている。

▲通用門前の「金原明善翁生家」の碑。

▲母屋に接続する十畳二間の離れ。

▲離れの床の間の掛け軸。中央は明善翁の肖像、左は後援者のひとり品川弥ニ郎の書、右は明善翁の書「私心一絶萬功成」。

▲明善翁の書「独立自尊」。

▲明善翁の書「終始一誠意」。終始一貫誠意を尽くせば何事も成就する。明善は一生涯をかけてこの言葉を体現した。

▲生家の西南西約800mの和田小学校前の八柱神社。明善の父久右衛門が天保十五年(1844)に安間村の安全を祈願して灯籠を献じている。

▲神社境内に建つ金原明善の顕彰碑。

▲明治十一年(1878)の明治天皇行幸時の玉座跡の碑。当時の治河協力社社屋前に建立された。

▲玉座跡の碑の付近から現在の天竜川を展望。

----備考---- 
訪問年月日 2024年10月19日
 主要参考資料 「浜松の史跡」
「天竜川物語」他

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