高平山砦
(たかひらさんとりで)

周智郡森町飯田


▲高平山砦は国人山内氏や甲州武田勢によって軍事利用されたとされる。
(写真・土塁上に座する遍照寺の大日如来像)

久野城警戒の砦

周智郡森町の最南部で袋井市との境近く、太田川段丘上に高平山遍照寺がある。

寺史によれば開山は元和元年(1615)で秀海上人の発願により大師堂が建立されたのに始まるとされている。城館資料によれば今川氏との関係が深い袋井市の西楽寺の末寺であった関係で戦国期にはすでに建立されており、戦時には軍事活用された蓋然性が高いとある。寺史では江戸前期の寛永十二年(1643)に西楽寺に寄進されて奥之院となったとあり、話が合わない。

おそらく秀海上人は高平山の頂上の削平地(砦跡)が境内地として相応しいと感じ、大師堂を建立したのではないだろうか。

天文(1532-54)の頃、飯田城を築城して本拠とする山内氏は南隣の宇刈郷の宇刈七騎と呼ばれる郷士等を支配下に置いていたと見られている。そうすると高平山に前哨陣地を設けたとしてもおかしくないだろう。しかし永禄十二年(1569)、徳川家康によって飯田城は落とされ、山内氏の支配は終わった。

その後遠江国内は徳川家康と武田信玄の抗争の場となり、元亀三年(1572)には信玄自ら大軍を率いて遠江に侵攻して来た。甲陽軍鑑に武田勢は「遠州たゝら・飯田両城落て御仕置あり」とある。武田勢は飯田城などを落として徳川方の久野城の警戒に当たったことなどが伝えられている。

静岡古城研究会では先の「たゝら・飯田両城」の「たゝら」をこれまでは只来城(浜松市天竜区只来)のこととされていたが、内容的に「たゝら」は飯田城に近接する城砦であろうとしている。そして「たゝら」と「たかひらさん」の読みが類似することから「たゝら」は高平山砦のことである可能性があるとしている。

いずれにせよ、飯田城を落とした武田勢は久野城を警戒して宇刈地区に兵を展開、ここ高平山砦や本庄山砦(袋井市春岡)にも進駐して改築作業にあたったものと思われる。

現在、遍照寺を訪れると本堂西側に立派な大日如来座像が目に入る。この座像が安置されている土壇はかつての土塁の一部とされる。また、砦跡の最南端部には大規模な横堀が発見されており、南西約500mの本庄山砦の横堀と同規模であることが指摘されている。


▲車幅いっぱいの山道を登りきると山頂の平場に出る。

▲遍照寺の本堂。

▲土塁上に安置された享保三年(1718)造立の大日如来座像。森町指定文化財である。

▲「富士見塚之松」令和改元大仏開眼三百年記念植樹。砦跡とは無関係。

----備考---- 
訪問年月日 2024年12月19日
 主要参考資料 「静岡県の城跡」他

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