(つばきひめかんのん)
浜松市中央区元浜町
▲椿姫観音は永禄十一年(1568)の徳川家康による引馬城攻めの際に開城を拒んで女城主
としての意地を貫き、侍女らとともに壮絶な最期を遂げたお田鶴の方を祀っている。
(写真・椿姫観音の御堂)
椿姫伝説
浜松市内の幹線道路のひとつ六間道路の元浜町交差点のひとつ北側の道路を椿観音通りと呼ぶ。この通りの四辻の一画に「椿姫観音」と呼ばれる小さな御堂がある。御堂の前に「祭祀・お田鶴の方」と彫られた立派な石碑が建っている。 永禄十一年(1568)十二月、三河から軍勢を率いて遠江入りした徳川家康は井伊谷から南進して引馬城(引間城とも)を目指した。 引馬城は以前、徳川家に誼を通じようとした飯尾豊前守連龍(乗竜とも)の居城であった。そのため飯尾連龍は今川氏真の怒りを買い、引馬城を攻められたが守り通した。城攻めを諦めた氏真は和睦とみせかけて連龍を駿府に呼び、謀殺してしまったのである(飯尾豊前守墓所)。城主を失った引馬城では幼子の義広を抱えた連龍の後室お田鶴の方が城主となって切り盛りしていた。 お田鶴の方は上ノ郷城主であった鵜殿長照の妹である。上ノ郷城は永禄五年(1562)に家康に攻められて落城、城主以下悉くが討死した。お田鶴の方にとっては家康は兄の仇であり、鵜殿本家を滅ぼした敵なのである。 引馬城を目指して南下した徳川勢は安間村(中央区安間町)に布陣、家康は橋羽の妙恩寺を本陣とした。ここで家康は引馬城からの急使に接した。 引馬城内では城主を補佐すべき家老の江馬安芸守と江馬加賀守が帰属先を巡って争っていた。安芸守は武田氏、加賀守は徳川氏である。徳川勢が迫ったことにあせったのであろうか安芸守は加賀守を討取ってしまったのである。ところが今度は加賀守の家来小野田彦右衛門が安芸守を討取り、その足で家康の陣中に駆け込んだのであった。 頃は良しと判断した家康は軍勢を引馬城へ押し進めた。家康は松下常慶、後藤太郎左衛門を使者として引馬城内へ送った。使者は「妻子の扶持と家来の本領は保証する」から開城せよと城主お田鶴の方に迫った。 しかし、お田鶴の方はこれを受け入れず、開城を拒否した。鵜殿本家を滅ぼした仇敵であったからなのか。または小国(周智郡森町)の国人武藤氏を頼って武田氏に通じていたとも言われている。ともかくお田鶴の方は頑なに開城を拒んだようだ。 家康は酒井忠次と石川数正に命じて城攻めを開始した。しかし城兵の必死の防戦に攻めあぐねた徳川勢は態勢を立て直して翌日には三ノ丸、二ノ丸を破り、本丸に迫った。徳川勢三百人、城兵二百人が討死したという。落城寸前となったとき、お田鶴の方は緋縅の鎧に白柄の薙刀、黒髪に純白の鉢巻き姿で侍女十八人を従えて打って出た。そしてお田鶴の方以下侍女らは一所にて壮絶な討死を遂げた。 落城後、家康はお田鶴の方と侍女らを手厚く葬り、塚を築いて弔った。家康の正室築山御前は塚の周りに百本余の椿を植えて供養した。塚はいつしか椿塚、椿姫塚、御台塚などと呼ばれたという。 以上は「浜松御在城記」などを基にした伝説で、現在でも史跡案内ではこれとほぼ同様の説明がなされている。水を差すようだが、「浜松御在城記」では以上の話を記した後に「時代違いに候、是は大河内兵庫助の合戦の事」としている。永正十四年(1517)に今川氏親によって引馬城が落とされた際のことだというのである。 それでも人々の椿姫に対する伝承は衰えることなく引き継がれ、昭和十九年(1944)には観音堂が建立された。翌年、浜松大空襲で焼け落ちたが昭和二十七年(1952)に再建されて現在に至っている。 |
▲四辻の一画に建てられた椿姫観音。 |
▲家康が築いた塚もいつしか無くなり、今では観音様が祀られている。 |
▲御堂の前に建つ「お田鶴の方」の碑。 |
▲御堂内の壁面に掲げられた由来書きなど。 |
▲祀られている観音様の写真。 |
▲今でも香華が絶えない椿姫観音。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2024年8月8日 |
主要参考資料 | 「浜松の史跡」 |
↑ | 「浜松城物語」 |
↑ | 「浜松城時代の徳川家康の研究」他 |