(すがぬまじょう)
新城市作手菅沼
▲ 菅沼城址。正面の密植林が城址となっている丘である。左のアンテナ塔
から林間の道を進むと墓地があるが、その辺りに土塁跡が残っている。
三河菅沼、発祥の地
三河菅沼氏の起こりについては諸説あって確定的でないのが現状であるが、一般的には土岐氏の庶流が先住の菅沼氏を滅ぼしてその所領を引き継ぎ、新たに菅沼を称したものとみられている。 永享六年(1434)、菅沼信濃守俊治が居城(菅沼古城又は菅沼本城と呼ばれている・旧字上前田・菅沼城から菅沼川の上流約1`)の地であるここ奥三河菅沼の地で周辺土豪を糾合して挙兵した。 俊治は正長元年(1428)に伊勢の北畠満雅が南朝後亀山天皇の皇子寛正親王(小倉殿)を奉じて挙兵した際、伊勢に馳せ参じている。元来が勤皇の家系であったのか、または将軍足利義教に何らかの不満を抱えていたのであろうか。今となっては知るすべもない。ともかくも菅沼俊治は反乱の旗を揚げた。 この反乱の報は直ちに京都に伝わった。将軍義教は土岐大膳興安、富永伯耆守久氏、土岐孫太郎頼房、同舎弟新二郎光貞、同新三郎定直らに菅沼俊治の討伐を命じた。 土岐大膳らの幕府方の軍勢が俊治の居城を囲んだのは二月二十四日と記されている。 この戦いで土岐定直は搦手口を受け持ち、出戦してきた俊治と戦ってその首を討取った。 将軍義教は戦功を賞して菅沼俊治の所領を土岐定直に与えた。定直は俊治の城跡には入らずに新たに居城を設けた。それがこの菅沼城であるとされている。 定直の嫡子定成の代になると田峯にその居を移した。定成の子定信は田峯城を築いて勢力を拡大し、その一門支族は東三河の各所に城を構えて繁栄した。 |
▲ 城址の北側を流れる菅沼川。左側の林は城址である。 |
▲ 城址西側から丘の中程まで続く道。 |
▲ 丘の中程に残る土塁跡。 |
----備考---- | |
---|---|
訪問年月日 | 2007年12月 |
主要参考資料 | 「日本城郭全集」他 |