(たないじょう)
町指定史跡
北設楽郡設楽町田内
▲ 城址北側からの望見。右の道路脇に登山口があり、数分で主郭部に到達できる。
田嶺城一番乗り
島田菅沼氏三代伊賀守定盛はそれまでの居城であった島田城(新城市愛郷)を弟の孫大夫定孝に譲り、自らは田内に城を築いてそこに移った。それがこの田内城である。 これがいつ頃のことであったのかは判然としないが、地元の伊豆神社の天文五年(1536)の棟札に定盛の名がある(「北設楽郡史」)と云われていることからその頃であったかもしれない。 定盛の後を継いだ定勝の時、弘治二年(1556)に菅沼一族は敵味方に分かれて戦うことになってしまった。宗家である田嶺城主の菅沼定継が奥平氏の誘いに乗って織田方に寝返ったのである。 定継ら織田方は奥平の援軍とともに布里城の菅沼定直らの今川方を打ち破って気勢を上げた。この時、田内城の定勝は今川方にその名を連ねていることから、城の防備を固めて籠城していたのかもしれない。 やがて今川の援軍を得た定直らは再び布里に進んで定継らを滅ぼしてしまった。 「よし、田嶺城を乗っ取ってしまえ」 定勝は嫡子定清(三照)とともに城を打って出、無主となった田嶺城を占拠してしまったのである。 田嶺城一番乗りを果たした定勝であったが定直らが進駐してくると城を退去して井道(新城市内井道南)に移った。豊川沿いの開けたところである。近くには定継の築いた新城古城や道目記城がある。 その後、定勝父子は今川、徳川、武田、徳川と属するところを変えながらも嫡子三照は天領の代官を務めるなどして徳川家の御使番となった。後には越前の結城秀康に仕えて大坂の陣に従軍している。 ちなみに三照は元和元年(1615)十月に福井で没した。後を継いだ定重は松平忠直に仕え、元和八年(1622)八月に福井で没した。そして嗣子なく断絶となり、島田菅沼家はこれで絶えてしまった。 |
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![]() ▲ 主郭部の削平地と祠。 |
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訪問年月日 | 2007年11月 |
主要参考資料 | 「日本城郭全集」他 |