伊庭城
(いばじょう)

豊橋市大崎町


▲ 伊庭城は伊庭藤太の城跡とされるが詳細は分からない。
城址の北側部分に土塁跡と思われる高まりを見ることができる。

土豪伊庭氏の古城跡

 この城跡について伝えられていることは少ない。城館資料には城主の項に伊庭藤太とあるだけだ。その伊庭氏のことについてもその詳細を知ることはできない。

 「三河国二葉松」の参州古城記の「大崎村古城」の項に「伊庭藤太、後に戸田三郎左衛門」とある。大崎村古城というのは大崎城のことで、戸田三郎左衛門は忠次のことであろう。忠次は永禄八年(1565)に大津(老津/高縄城)に二千三百石を与えられており、その際に大崎城もその支配下に置かれたということであろう。

 では、それ以前の大崎城には伊庭藤太が居たということなのであろうか。考えられるのは三河が今川義元によって支配されていた時期に土豪伊庭氏が大崎城を預かったということであろうか。田原戸田氏が今川氏に滅ぼされる以前、大崎城は田原城の支城として機能しており、戸田宣成が城主であった。土豪伊庭氏はその支配下にあったはずである。

 その伊庭氏の居館城であったのがこの伊庭城であったのだろう。現在、城址は畑地となり、その周辺は宅地化して見るべきものもない。ただ、方形の畑地が周辺より一段高くなり、縁辺の一部に土塁跡と思われるものが残っており、城跡の痕跡らしきものを伝えてはいる。

 伊庭氏というと近江守護佐々木六角氏の守護代として権勢を振るったことで知られるが、その支流の何某が当地に土着したものであろうか。

 以前は城跡を示す標柱が残されていたようだが、私の訪れた時には見つけられなかった。撤去されたのであろうか。その標柱には伊庭藤太と並んで磯田民部という名も記されていたようだ。残念ながら磯田民部という人物についても分からない。

▲ 城址西側の縁辺部分。道の右側の一段高
くなった部分が方形の畑地となっている。

----備考----
画像の撮影時期 2010/04
主要参考資料 「愛知県中世城館跡調査報告書」他

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