(たかなわじょう)
豊橋市老津町
▲ 高縄城跡は現在、家政高等専修学校の校域となっている。城址標柱が校門を入った所に建っている。
戦国戸田氏、
雄飛の城
高縄城は後に渥美半島を統一し、東三河の有力国人として戦国時代を生き抜いた戸田氏の最初の城である。文明七年(1475)、戸田氏中興の祖である戸田弾正左衛門宗光によって築かれた。 戸田氏の祖は正親町三条家の公卿右中将実興で、尾張戸田郷に配流されて郷名を姓としたのに始まる。実興の子実光のときに正親町三条家の代官として碧海郡上野荘(豊田市上郷町)に移った。この実光の子が宗光である。 おりしも京都では応仁の乱が起き、その余波は全国的に拡大していった。宗光は駿河の今川義忠(東軍)に属して知多半島東岸の諸港を押さえ、三河湾を制して大津(現・老津)に進出したのである。そして高縄城を築いた。 宗光が渥美郡の一色氏(西軍)の所領を窺っての行動であることは明らかであった。領主一色七郎政照の居館(田原市)はここから西へわずか6`ほどのところにある。しかも当主は京都の戦陣にあって留守であった。できることなら、血を流さずに政略的に事を運びたかったのであろう。宗光は松平信光と一色氏の妻との間に生まれた娘を娶っていた。いわば一色氏とは血縁関係にもあったのである。 そのためか、一色政照は京都の陣から帰郷すると、宗光に説得されて隠居した(一色屋敷)。無論、戦国の世である。宗光が武力もちらつかせての説得であったろうことは想像に難くない。 こうして宗光は田原城を築いて高縄城から移った。文明十二年(1480)のこととされている。 その後も高縄城は田原城の支城として維持されたと思われる。 天文十六年(1547)、竹千代(徳川家康)を織田信秀に送ったことで今川義元の怒りを買って攻められ、五代続いた戸田氏は田原城とともに滅んだ。 永禄七年(1564)、三河統一を進める徳川家康はこの年、吉田城と田原城を攻略して今川勢を三河から駆逐した。家康はこの戦いで戦功のあった戸田忠次に戸田氏の故地である高縄城を与えた。 忠次は田原四代城主康光の甥にあたり、天文十六年の落城の際に生きのびて家康に仕えていたのであった。天正十八年(1590)に伊豆下田五千石を領して転封、高縄城は廃城となった。 |
▲ 家政高等専修学校の西側の畑地は外曲輪跡とみられている。 |
----備考---- | |
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訪問年月 | 2008年07月 |
主要参考資料 | 「日本城郭全集」他 |
本文一部訂正 | 2010年06月12日 |